帝王妃の部屋。
いつものようにソフィーダは長椅子に体をあずけ、レーゼと話していた。
「お兄様が言ってらしたことって、何なのかしらねえ」
「昼間のお話ですか?」
「そう」
「…良く分かりませんけど…とにかく、ソフィーダ様がマジェスティーナであることに変わりはないわけですし。それで宜しいのではないかと」
「お兄様が言うからには確かだとは思うのだけどね。…やっぱり理由が知りたいのよ」
白黒はっきりつけたがるソフィーダには、やや不満が残っていたのだった。
その時、奴隷頭がやってきた。ソフィーダもレーゼも、見ただけで用件が分かる。
ソフィーダがうなずくと、奴隷頭は一礼して去っていった。
「来たわね」
「…はい」
「さて、どうするおつもりなのかしら」
他人事のようにソフィーダは言い、部屋の入り口に帝王その人の姿を認めた。
奴隷達を皆下がらせ、いつものようにアードがソフィーダを抱き上げて寝台に連れてゆく。
今日はそっと帝王妃を寝台に降ろして、向きあった。
天窓から差し込む薄明かりのおかげで、表情は分かる。
─ 変なマジェスティ。
ソフィーダは案外落ち着いていた。目の前の帝王は何か言いたそうな、しかしどう言っていいのか分からないような ─ 困った少年のような顔をしている。
随分経った後で、やっとアードが一言、
「ソフィーダ」
と呼んだ。
「はい」
本当にどうするつもりなのかしら、と半ば見守るような気持ちで、ソフィーダは答えた。
「…」
今日は言葉が上手く出ないな、と焦りながらアードは目の前の帝王妃を見ていた。
タチアナの言った通りだ。ソフィーダが特に怒っているという様子はない。
─ こういう時が一番厄介だ…。
どうせ心の中は煮えたぎってるに決まってる…と思うのだが、その雰囲気が欠片も見当たらないので、却って困っている。
─ どうしたらいいんだ全く。何でこんな厄介なことになってるんだ。…俺のせいか?…俺のせいだ。
自問自答しておいて、アードはうなだれた。
ソフィーダ、と呼んでからも時間が経っている。早く何か言わなければならないだろう。
「ええと。その。
…知ってるんだろう?」
「何の件についてでしょうか」
─ 聞き返すな!
「…イーエンが…その…」
ソフィーダは、後を引き取ってはくれない。
「…その…俺の子を身籠もった、って…」
「はい。存じております」
やっとの思いで言うと、ソフィーダは明瞭に答えてうなずいた。
アードはソフィーダの表情を見る。怒っている様子はない。
─ もうそろそろ怒っても怒らねえから。怒れよ。
念じても通じない。
仕方ないので、聞くことにした。
「…怒ってないのか?」
「別に、そのようなことは」
「何で?」
「だって仕方のないことですもの」
「…お前、本当に本物のソフィーダか?」
「…随分なおっしゃりようですわね」
「だってなあ…」
「仕方ない、などと申してはいけませんわね。きちんとしなければ。おめでとうございます、マジェスティ」
「何でだ!?」
アードは叫んだ。
─ 何でって言われても。
ソフィーダは心の中で舌を出した。
「あのな、お前。俺が言うのもなんだけどな、イーエンだぞ?イーエンがマジェスティーナを差し置いて、子を身籠もったんだぞ?ちょっとは生意気とか思わないのか!?」
一度叫んだら言葉が出て来やすくなったらしい。アードは早口でまくしたてた。
「生意気って、そんなこと思っても仕方のないことではありませんか。それともなんですか、マジェスティは何故お前は勿体なくもマジェスティーナという位にありながらさっさと御子を授からないのか、とわたくしを非難するおつもりなんですの?それはそれで仕方ないことですわ」
「誰もそんなこと言ってないだろ!?」
「言いたかったのではありませんの?」
「別にそんなこと思ってるわけじゃない!」
「遠慮なさらなくてよろしいのに。どうせあちらに御子が出来たから、こちらにはもうそうそういらっしゃれないとでも言いたくていらしたのでしょ?それならそうと早くおっしゃってくださいまし。わたくしは一向に構いませんから」
「だーから、なんでお前はそう先走るんだ!俺の話を聞け!」
「さっきから黙ってらしたのは、マジェスティの方ですわ。言いづらいのかと思ってわたくしから言って差し上げたのに」
「俺はそんなこと言いたいわけじゃないってのが何回言えば分かるんだ、お前は!」
「一回で十分ですわ。そのかわり、はやく用件をおっしゃってくださいまし」
「用件って………お前、今俺は政治とかの話をしてるわけじゃないんだぞ?」
「似たようなものです」
「あああ、もう!!」
アードはついに爆発した。
「そういうのを慇懃無礼って言うんだ!素直に怒れ!!!」
ソフィーダも、頬を紅潮させてアードを睨んだ。
「では率直に言わせていただきますわ。だから言わないことではない、というところです」
「…どういう意味だ」
「今までも散々食い散らかしてきて、こういったことがなかったことの方が不思議なのです。で、世継ぎの御子の為に妾は必要だとか言ってらしたくせに、いざ出来たとなったらうろたえたりして、みっとものうございますわ。そうなるだろうと思っておりましたから、お行儀の悪い真似はおやめ下さいまし、と散々わたくしが申しましたのに、ちっともお聞き下さらないからこういうことになるのです。
こういうのを『身から出た錆』とか言うんですわ!」
容赦のないソフィーダの言葉に、アードは寝台を思いきり一つ殴ると、その勢いで立ち上がった。
「だーれがうろたえた、ばかやろう!ちょっとはショックかと思って気を遣ってやったらつけあがりやがって、全く!
やめたやめた、慣れないことはするもんじゃない!邪魔したな、ソフィーダ。俺の御子がもうすぐ見られるぞ、楽しみにしておけ!!」
「せいぜいお行儀のいい御子であることをお祈りしておりますわ!」
アードはしばらくソフィーダを見ながらフーフーと息をつき、
「じゃっ!」
寝台から勢いよく降り、足音も荒く部屋を出ていったのであった。
「…ソフィーダ様?」
しばらくの後、物影から遠慮がちにレーゼが顔を覗かせた。
「ああ、ヴァン・レーゼ。いらっしゃい」
ソフィーダは寝台に座ったままだった。
レーゼが側に跪くと、ソフィーダはその茶色の髪をそっと撫でる。
先程帝王とののしりあっていたとは思えないほど、穏やかな雰囲気だった。
「聞こえた?」
「…はい。大体は」
後宮の奴隷たちは普通、『下がる』と言っても視界から消えるだけで、全員が完全に遠くに行くことはあまりない。ましてソフィーダの一番のお気に入りであるレーゼだ。今日は不意の呼び出しがあるに違いない、と寝室裏のカーテンに身を潜めていたのであった。
「困ったわねえ、マジェスティも」
「でもソフィーダ様。ソフィーダ様は、本当に怒りたかったわけではないのでしょう?」
「良く分かったわね」
相も変わらずレーゼは聡い。
「何となく、そんな気がしました」
「そう?」
ソフィーダは優しく笑った。
「お前には正直に言うわ。
あのね、わたくしにはマジェスティが怒って欲しくて仕方ないように見えたの。もっと言うと、嫉妬して欲しくて仕方ないように、見えたのよ。
だからそうしてみたの。そしたら、マジェスティが安心した気がしたわ。何だか、変ね?」
「いいえ。多分、いいえ」
レーゼはかぶりを振ってそのぱっちりとした目で、敬愛する帝王妃を見た。
それから、慎重に答えた。
「ソフィーダ様がそう思われたのなら、それで確かです。きっとです」
「ありがとう」
美しい帝王妃は、にっこりと笑った。
|