短剣。
タチアナはどこに持っていたやら、短剣をさっと取りだすと自らの前に置いて深々と頭を下げた。
─ !?
周囲がどよめく。
レーゼはとっさに、ソフィーダの前に身体を乗りだした。
「私に、死をお命じ下さいませ、マジェスティーナ」
「!!??」
タチアナの言葉に、誰もが驚愕した。
「な、何を言いだすんだお前は!?」
ジールでさえ、後宮の決まりごとを忘れて顔を上げている。
「マジェスティーナ。カリューンに誓って申し上げます。私は、あの方が恐れ多くもマジェスティであるとは、知らなかったのです。ただ、あの方に是非私を買っていただきたいと思った、ただそれだけなのです。マジェスティーナと寵を競うなど、考えてもおりません。
でも…でもマジェスティーナ、私は他の主人に仕えるのはもう、出来ないのです。愚かしいとお思いでしょうが、あの方を見てしまった以上、他の主人を見つけることは出来ません。ですから…ですからマジェスティーナ、どうか私に死をお命じ下さいませ!」
タチアナは頭を下げたまま一気に言った。
─ そんなこと言われても…。
というのが、ソフィーダの頭に浮かんだ第一感想であった。
相手にここまで開き直られている以上、却って死ねとは言えないのが人の性である。
ましてここで「じゃあ死になさい」と言えば、「警察総監から帝王に献上されるはずだった奴隷を、帝王妃が私的理由で殺した」という実に愉快ならざる結果になる。
そこまでこの奴隷は計算しているのだろうか…?
「お前、死ぬつもりだったらせめてここに来る前に死んだらどうだ!何もマジェスティーナの御前で……!!」
─ 全くだわ。
ジールの言葉に、内心ソフィーダは大きくうなずいた。
「お許し下さいませ、ジール様。どうしていいのか分からなくて……」
タチアナはその大きな目から涙をぽろぽろとこぼしている。
「ソフィーダ様、どうするのですか?」
レーゼはまだ警戒を解いておらず、ソフィーダをかばうように自分の身体を前に乗りだしたまま、そっと聞いた。
「…どうするもこうするも…」
殺すのは簡単だ。死ぬなら死ぬで、一向に構わない。
ただ、引導を渡すのが自分となると、また話は別である。
アードに素直に渡すか、殺すかの二択。
正直に言えば、「どっちも嫌」というのが本音のソフィーダだった。
体よくジールかサラディンに押付けて、追い返すつもりであったのに。
「とにかく、ここは下がるぞタチアナ!全くマジェスティーナの御前でなんという………」
「嫌です、死を命じられるかアード様のもとへ連れて行っていただくまでは、私……!!!」
無理矢理にタチアナの手を掴んで立たせようとするジールに、タチアナは激しく抵抗した。が、その場に居合わせた帝王妃付きの人間達も、ただ黙って見ているわけではない。タチアナはあっという間に数人に囲まれ、短剣を取り上げられ、今しもひったてられようと、
「よう、ソフィーダ。騒がしいな、どうした?」
「マジェスティ!!!!!」
ソフィーダは思わず叫んだ。
最悪の、間である。
そこに現れたのは帝王アード・アル・レストその人であった。
「か、軽々しいにも程がありますわ!なんですの、先触れもなく!」
「なんだよ、いいじゃんか。たまたま近くを通ったらなんか騒がしかったから。どうした?」
「御主人様!!!」
タチアナがひときわ大きな声で叫び、周りの者たちの一瞬の隙をついてアードに飛びついた。
「んえっ!?タチアナ!?なんだってここにいるんだ?」
そう言いながらも、条件反射でしっかりとタチアナを抱きしめるところがアードである。
「御主人様、お会いしたかったですわ!ああ、何て嬉しい………!!」
「いや、俺も嬉しいけど…一体これはどういうことなんだ?」
「マジェスティ」
腹をくくったジールが、元の通りうつむいて声をかけた。
「お、ジール。……ああ、なるほどお前か。タチアナを連れてきたのは」
「そうです。…が、とんだ騒ぎになりまして…」
「うん、なんだかよく分からないが、大変みたいだなあ」
「呑気なことをおっしゃっている場合ではありません」
「じゃあどういう場合なんだ?」
「…それは…」
言いかけて、ジールは困った。代わりにタチアナが、
「マジェスティでしたのね、御主人様」
「あ、ああ。黙っててすまない。色々と事情が」
「マジェスティーナと寵を争える私だとお思いですの?ひどいですわ」
「いや、そういう問題じゃなく…まあ適当に仲良くやってくれれば…」
「私は勿論、喜んでマジェスティーナにお仕えするつもりですわ。お許しさえ、あれば。とにかく、御主人様のおそばに居たいのです。居させて下さいませ。…でなければ、この場で死ぬ許可をお与え下さいませ」
「可愛いことを言うなあ、おい」
好みの美女にこんなことを言われて、くらくらとこないアードではない。
「ソフィーダ」
「…なんですの?」
すっかりないがしろにされていたこの部屋の主は、感情を無理矢理押し殺した声で返事をした。
「なんだかよくわからんが、とりあえずタチアナもこう言ってることだし、なんとかならないか?」
「なんとかって…」
「お前に迷惑はかけないからさ。せっかくサラディンが俺にくれるっていうんだし。警察総監からの献上物ってことだし。な?」
「迷惑は、かけない…」
今、十分迷惑なのだがその辺はなんとかならないだろうか。
だが、ここで下手に嫌だなんだと言えば、状況はますますタチアナに有利になる。
「…………」
ソフィーダが黙っていると、アードはタチアナを離し、つかつかとソフィーダに歩み寄った。
何も言わずにいきなりソフィーダを抱きしめる。唇を重ねる。
「んん…っ」
「ソフィーダ?」
ようやっと離すと、頭を撫でる。
「…マジェスティ…」
ずるい。
「あのな。
俺が言うのもなんだが、今、お前が反対する理由ないだろ。必死で探してるところだ。違うか?」
そしてこういう時に限って無駄に頭の回転が早い。
「…」
「じゃ、とりあえず理由が見つかるまででも、この奴隷は警察総監サラディン・ルールより帝王への献上物として受け取らざるをえないな?」
「………」
「国の繁栄にも関わるんだぞ?世継ぎの王子はまだいないのだからな。産むための妾は多いに越したことない、だろ?」
「…………」
「昨日、好きにしろって言ったばっかりだしな?」
反論。したいが出来ない。
アードが、にやっと笑った。
ソフィーダの頬を軽くはさんでキスをし、それから他の者に向き直る。
「よし。じゃあ決まりだ。侍従、タチアナの部屋の用意を。それから五の大臣、警察総監に誉れの衣と金蔵からこの奴隷の代金の5倍、デュラン金貨を。いいな?」
かくしてタチアナは、当代の帝王、アード・アル・レストの後宮に納まることになる。
このことがやがて大きな出来事のきっかけとなるのだけれど、それはまた次のお話。
今は一度、目をとじて。
やがて語られるときに備えて、少しおやすみ。
目覚めたら、大きな物語があなたを待っているから。
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