帝王妃ソフィーダ
第九話

 五の大臣ジール・ガリスと奴隷頭に率いられ、タチアナはしずしずとソフィーダの部屋に入ってきた。
 きちんと整えられた彼女の様子を見て、ソフィーダの心が一瞬燃える。仕方のないことだが、ソフィーダは自室でくつろいでいたので特に着飾っていたわけでもない。それでも身に纏っているものは、庶民には外出着としてもためらわれるほど高価ではあったが。
 そしてタチアナはそれほど大したものを着ていなかったので、そのことに関するソフィーダの不機嫌は本当に一瞬ですんだ。ここまでは、ジールの作戦通りである。
 二人は、距離にしてソフィーダから約三メートルまでたどり着くと、跪いて礼をする。
 「マジェスティーナ。突然、失礼致します。これは警察総監サラディン・ルールより本日マジェスティに献上された奴隷でございます。どうぞ、よしなに」
 口上はジールが述べる。
 余談だが、帝王の後宮に入れる男性は、帝王自身と一から七までの大臣までとなっている。あとは特別に帝王が許した者か、宦官でなければ後宮に入ることは許されていない。
 更に、帝王と宦官以外の男性は後宮で帝王妃に謁見する際、顔をあげてはならないというのが決まりであった。
 そんなわけで今、ジールもうつむいたまま口上を述べたのである。
 ソフィーダは内の感情はともかく、にっこりと微笑んだ。
 「分かりました。警察総監殿も御苦労ですこと。そして五の大臣、あなたもね。マジェスティの奴隷に、どうしてわたくしが異を唱えるかしら?」
 「いえ、そのようなことは」
 ジールはそこで言葉を止めた。下手な言い訳はしないがいい。帝王妃の聡明さを、彼はよく分かっていた。
 ふぅん、とソフィーダは唇に指を当てる。さすが、五の大臣はマジェスティと違って、簡単に言質を取られるような真似はしてこないわ。やりづらいこと。
 諦めて、ソフィーダは矛先を別に向けた。
 「そして、それが件の奴隷というわけですね。名前は?」
 「タチアナと申します」
 勿論、タチアナが直接答えるなどということはない。ジールが答える。
  「そう。
 …ヴェールを取って、顔をお上げなさい」
 ジールは後ろのタチアナに言う通りにするよう促す。
 タチアナは彼女全体を覆っていたヴェールを取り、ついでに顔のヴェールも取った。
 顔を上げる。
 ─ 奴隷市場では気づかなかったけど、翠の眼なのね。珍しい…。女魔神(ジンニーア)のようだわ。ただ外国の者だからなのかもしれないけど…何となく気に入らない。マジェスティのことを抜きとしても。
 それはともかく、今がこの奴隷を何とかするチャンスであることには違いないわ。さて…。
 しばらくタチアナを見つめて考えた後、ソフィーダはジールに言葉を投げた。
 「外国の者のようね。珍しいこと。カリューンも変わった目をお作りになるのね。
 ところで五の大臣。わたくしの聞き及んだところだと、昨日の奴隷市場は随分騒がしかったようですけど?」
 「は…」
 ジールも馬鹿ではない。ソフィーダがアードの行動を監視していることくらいは、分かっていた。
 その上で、この発言である。要するに、昨日のひと騒ぎはとうに帝王妃の知るところとなっているわけだ。だとしたら、下手に隠し通しても仕方ないが、ソフィーダがどれだけの情報を持っているのか、まだこの発言から全部はうかがえない。
 もう少し、様子を見なければ。
 それにしても、顔を上げてはならないという決まりがこれほどうっとうしく思えたときもなかった。
 声音だけでは、推測にも限度がある。まして気性の激しいマジェスティーナのこと、表情に何かしらの情報が出ているはずなのだ。それが見られれば、この場がどれだけ楽か。
 さすがのジールも、まさかソフィーダがその場にいて、その目で見ていたとは考えが及ばなかった。
 「何でも、最後の競りが一番大変でしたとか」
 ソフィーダはゆっくりと言った。
 ─ 全部知って、らっしゃるな…。
 ジールは悟った。さあ、この奴隷は後宮で生き残れるか。
 何しろ公衆の面前で帝王に抱きつき、自らを買ってくれとまで言ったのである。そこまでした奴隷に、ソフィーダがどうして歓心を持てようか。
 ─ ここまでか、いや、待て…。
 「最後の競りで、やっと警察総監殿がこれなる奴隷を見つけ、マジェスティに献上すべく買い求めたのであります。なかなか買い手のつかなかった奴隷であったのでそれなりに騒ぎは起こったそうですが、マジェスティーナのお心を煩らわせるような騒ぎは、何も」
 「なかなか買い手のつかなかった奴隷を、マジェスティに?警察総監は何をお考えなのかしら?」
 先手を取って押し切るつもりが、裏目に出た。彼らしからぬ言質を取られる。
 ソフィーダの口調には、かすかな笑いが感じられた。その笑いの意味をジールは必死に推し量る。
 ─ 顔さえ、上げられれば…。
 きっと唇を噛む。
 「売れ残りというわけではありません。なかなか高価で買い手がつかなかったとのことで。何にせよ、ただの奴隷でございます。お心をどうか安んじ下さいませ」
 「ねえ、ジール殿」
 ソフィーダは艶然とした口調で言った。
 「わたくしは、心を乱してるわけではありませんわよ。その奴隷を容れるのに反対しているわけでもありませんわ。
 お分かりでしょう?」
 「は…」
 ─ だったらどうしろと…。
 計算が狂ってきた。ジールは、彼らしくもなく焦っていた。

 ソフィーダ様ったら…。
 横で見ていたレーゼは、不謹慎ながら可笑しくて仕方なかった。
 だって、ソフィーダは笑っているのだ。
 容易に言質をとられるような真似をしない五の大臣、ジール・ガリスをやっと困らせられたので、ソフィーダはこのやりとりを楽しみ始めたのであった。
 ─ ジール様が真面目に応答しようとすればするほど、ソフィーダ様は愉快がられるわ。全く、ソフィーダ様ったら…。
 それでも、奴隷であるレーゼが口出しは出来ない。というか、する気もないのだが。ただ真面目くさった顔を作って、ソフィーダの横に控えているのが彼女の義務だった。

 ソフィーダはレーゼの察し通り、やり取りを楽しみ始めていた。
 もともと抜群の才を誇る女性であり、アードと真面目に政治の話も出来るのである。
 丁々発止のやりとりとなると、相当に燃えるタイプであった。
 ─ ジールも大したことはないのね。さて、どうやったらこの奴隷をサラディンに返すかジールに押付けられるかが問題なのだけれど…。
 「マジェスティがお気に召したのなら、わたくしが反対する理由など何もありませんわ。もうマジェスティのお目にはかけたんですの?」
 「いえ、それはこれから…」
 「まあ、何故?マジェスティへの献上品でしょう?だとしたらどうして、わたくしのところへ先に?マジェスティのお気に召さなくて警察総監殿にお返しすることにでもなったら、わたくしの目にかけること自体、無駄にはなりませんこと?」
 ぎりっ、とジールは歯がみした。完全に裏目に出た。
 それにしても、なんという帝王妃か。
 まさか奴隷市場でアードが直接欲しいと言ったから大丈夫です、とは口が裂けても言えない。
 だとしたら。
 「マジェスティーナ」
 ジールが必死で考えているのを遮り、声高に言ってのけたのは、タチアナその人であった。

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