帝王妃ソフィーダ
第四十話

 空気が割れた。ソフィーダの身体から光があふれ、その光は三つに分かれて召喚の間の壁に描かれていた魔神、鬼神、魔霊の紋章に突き当たる。
 ムスティールははじき飛ばされて部屋の隅にぶち当たった。慌ててレーゼが介抱に向かう。
 ソフィーダから発せられた光がますます強まったかと思うと、まず左の壁にあった魔神の紋章が強く輝きだした。
 「『貴婦人』からか…」
 ムスティールが呟く。レーゼには、その言葉に聞き覚えがあった。確か、攫われたソフィーダを助けに行く前にマールザワーンを呼んだとき、その名前が出たはずだった。
 紋章からするりと浮かび上がったのは、マールザワーンよりよほど大きな魔神だった。
 女性のようだった。腰までとどく美しい金髪をなびかせている。身体はマールザワーンと同じ水色の肌をしているが、あちこちに紫色の刺青が入っていた。耳の後ろにある黒い角は四本である。
 身にまとっているのは薄いリボンのような布と、顔の下半分を隠す半透明のヴェール。そして髪と同じ金色の装飾品のみであった。
 マールザワーンはほぼ人間と同じような体つきだったが、この魔神は違った。手は六本あり、豊かな乳房は全部で四つもあった。
 殊に変わっているのはその六本の手である。普通なのは真ん中の一対だけであり、一番下の一対は胸の前で組み合わされており、なおかつ腕輪につけられた鎖によって、自由を制限されていた。一番上の一対は、親指以外の指が異様に長く、平たくなっている。
 「わらわを呼んだか、当代のマジェスティーナよ」
 ゆっくりと魔神は言った。声もやはり女性のそれだった。
 ソフィーダは額に汗をにじませながら、しっかりとした声で問い掛ける。
 「魔神(ジン)の中の魔神、汝、名は何か」
 「…わらわの名は、ラッラ・ウルバーン
 ムスティールは息をついた。「貴婦人」の名をとった。とりあえず魔神の召喚は成功だ。もともと、魔神は人間に友好的である。最も与しやすい相手と言ってもよかった。
 次に、右の壁にあった鬼神の紋章が強く光る。
 その光は召喚の間の床を照らした。かと思うと、地鳴りが押し寄せる。
 床から、雄叫びと共に少しずつ姿を表したのは、ラッラ・ウルバーンより更に大きな鬼神だった。その身体は赤と白の炎に包まれている。
 人間 ─ というよりは何か、獣に近いような顔だった。額と、両耳の後ろで計三本の黒く太い角が生えている。
 身体は人間に近かった。上半身は裸であり、褐色のその身体は鋼のように筋骨隆々としている。下半身は緋色の布をまとっており、手には黄金のガントレット、足には黄金の靴を履いていた。
 その鬼神は、割れんばかりの声で言った。
 「儂を呼んだか、当代のマジェスティーナ」
 ソフィーダは圧倒される大きさと力に向かって、やはりしっかりとした声で問い掛けた。
 「鬼神(アフアリート)の中の鬼神、汝、名は何か」
 「儂の名を聞いたマジェスティーナは久し振りだ。何の用か」
 「名を聞いているのです。お答えなさい!」
 必死にソフィーダは言った。
 召喚とは呑まれたら負けだというムスティールの言葉を、ソフィーダは覚えていたのだ。
 「ラッラ・ウルバーンも居るな…面白い、答えてやろう。儂の名は、グエユ・キーリ
 ムスティールはまた息をついた。「紅蓮獣」の名もとれた。今、ソフィーダが生きているだけでも奇跡に近かった。
 ちなみに、グエユ・キーリの身体は炎に包まれてはいるが、熱さは感じない。幻の炎だった。
 「すごい……」
 レーゼはムスティールを支えてはいたが、ぶるぶる震えていた。
 「問題はこれからだ」
 「え?」
 「最難関が残った」
 果たして最後の一つ、魔霊の紋章が一気に輝きを増す。
 目も開けていられない眩しさが一瞬訪れたかと思うと、次の瞬間紋章の前に意外に小さな人影があった。
 ゆらり、と中に浮いている。
 人間のようだった。
 が、その肌は深い緑色だった。左肩から足下までは光をそのまま集めたようなまばゆい金色の長衣を纏っているが、右肩は露出している。
 胴は肌よりも明るい緑色の布で締められている。頭にはやはり金色の帽子を被っていた。
 グエユ・キーリと同じく、黄金の靴。
 右手には赤い表紙の本 ─ おそらく聖典 ─ を持っており、左手は黄金のガントレットがはめられており、そこからは透明な長い剣が生えていた。
 背には翼らしきものがある。と言っても、銀色の骨子が見えるだけである。羽の部分は完全に透明で、見えなかった。
 一番不気味なのはその顔である。
 翼の骨子と同じ、銀色の仮面をしていた。
 おかげで、表情が窺えない。
 「あれが、『寵愛者』…」
 ムスティールの額に、じっとりと汗がにじんでいた。
 ただの魔霊でさえ、人間が太刀打ちできるものではない。
 その魔霊の中でも最高の力を持ち、カリューンに最も寵愛されているものと呼ばれるそれである。
 レーゼは召喚について殆ど何も知らなかったが、本能的に圧倒されて口もきけなかった。
 まして、対峙しているソフィーダが力を感じないわけがなかった。
 魔神や鬼神とは桁はずれの力を持っている、とはっきり分かる。
 だが、引き下がるわけにはいかない。戦っている兵士達やルッテル・ドナ、そして帝王を助けるにはこれしかないのだ。
 「……魔霊(マーリド)の中の魔霊、汝、名は何か」
 搾り出すようにソフィーダは問い掛けた。
 魔霊はしばらく黙っている。左右の魔神、鬼神は面白そうに見守っているだけだ。
 仮面のおかげで、表情が全く窺えないのがもどかしい。
 どうすればいいのか、ソフィーダは途方にくれた。
 「…当代のマジェスティーナ。そなたこそ、名は何という?」
 しばらくの後、その魔霊は静かに尋ねてきた。
 先程の鬼神の時には強気に出ることで名を取った。今回もそうすべきか否か。
 「だめだ、マジェスティーナ。相手の名を聞く前に名をやるんじゃない!」
 思わず叫んだムスティールは、魔霊がほんの少し左手を揺らしただけで再度壁に叩きつけられた。
 召喚において、名前のやり取りはもっとも重要なことである。名を知ることは支配に繋がるからだ。
 こちらが先に名前を与えたおかげで、魔神や鬼神にいいように操られることになった例をムスティールは山ほど知っていた。だから止めたのだ。しかしソフィーダは心を決めた。
 「…お兄様。まずこちらが信じなければ、とてもマジェスティを助けてなどいただけませんわ。
 ― 尊ぶべきマーリドよ、御身の上にカリューンの恩寵と平安あれかし。わたくしの名はレ・アル・ソフィーダ。当代のマジェスティーナを務めています」
 まっすぐに魔霊の目を見つめ、しっかりと言った。
 「死を覚悟した目だな。よくよくの理由があるのだろう。
 私が人間の前に姿を表すのは、三千年ぶりだ。 ─ 我が名は、ルクス・カリューン
 ソフィーダは自然と頭を垂れた。左右の魔神と鬼神は、満足げにうなずいた。

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