帝王妃ソフィーダ
第三十七話

 「鉄の馬」を駆ったサラディンは、ルッテル・ドナ上空を飛び越え、霧の方に向かう。
 ルッテル・ドナから遠ざかるにつれ、霧で視界が悪くなる ― と思ったら一瞬壁をすり抜けるような違和感の後、すぐに視界が晴れた。
 ― どういうことだ?
 と思う間もなく眼下に船団が現れる。
 尋常な数ではない。海を埋め尽くす勢いだ。
 第一、霧の向こうから見たときよりよっぽどルッテル・ドナに近い。
 このままでは予想より遥かに早くルッテル・ドナに着くだろう。
 幸い、ルッテル・ドナは湾になっているので、この船団全てが一気に入ることは出来ないだろうが、それはつまり、倒しても倒しても次がくるということになるだけだ。
 さすがのサラディンも一度肝が冷えたが、そうも言っていられない。
 せめてファーレンダイン王が乗っている船を見極めたかったので、少し近づく ― と、彼の横をヒュッと矢がかすめた。
 見つかった、と思ったサラディンの判断は一瞬遅かった。次の矢が彼の左肩に深々と刺さる。
 「!!」
 制御を失った「鉄の馬」が傾いだおかげで次の矢は避けることが出来たが、矢はどんどん飛んでくる。もう偵察どころではなかった。
 何とか体制を立て直し、その時にまた矢を二本、脚と先程刺さったのと同じ左肩に受けながらサラディンは全力でルッテル・ドナに取って返すことになったのである。
 幸い、「鉄の馬」の速度は常識を遙かに超えている。サラディンはすぐにルッテル・ドナに着いた。
 船を選んでいる余裕がなかったので、手近な船に「鉄の馬」をおろす。
 「サラディン殿!?」
 何も知らなかった兵士達は吃驚したが、乗っていたのがよく知れた警察総監サラディン・ルールだったのであり、しかも矢を三本も負っていたので慌てて駆け寄った。
 さすがにサラディンは矢の痛みで顔をしかめており、「鉄の馬」から降りるとがくりと膝をついたが、駆け寄った兵士にしっかりとした声で言う。
 「…マジェスティに、取り次ぎを頼む」
 「どうした!?サラディン、これはなんだ!?」
 兵士達をかき分けて来たのは、五の大臣ジール・ガリスだった。
 「…ジールか。そうか、これはお前の船だったのか」
 「なんだこれは。どこに行ってきたんだ?」
 「時間がない。マジェスティにお伝えしてくれ。この霧は変だ。ルッテル・ドナの港周辺だけが包まれている」
 「…フィオルナの魔術か」
 「かもしれん。それと…思っていたより早くフィオルナの船団が来る。もう時間がない。あと…王宮の結界はじきに完成する」
 「分かった。必ずマジェスティにお伝えする。誰か!」
 手近な兵士に伝令を頼むと、ジールはサラディンを助け起こした。
 「ほら、気を抜くな。しっかり意識を持ってろ」
 「…すまん」


 ジールの船から来た伝令は、アードにサラディンの言葉を伝える。
 果たして、アードは舌打した。
 「…また、あの婆か…」
 サラディンをやられた恨みはひとまず措いておくにしても、あちらが魔術でくるのなら、こちらも祭祀所の神官を動かした方がよくはないだろうか。
 しかし今、主立った神官は魔霊の結界で手一杯のはずである。
 どうしたものか。
 少し悩んでいる間に、前線の船から上手く声にならない叫びが聞こえた。
 声に呼応して沖に目をやったアードも、聞いてはいたものの目を疑う。
 フィオルナの船団が霧の中から唐突に姿を表したのである。
 ぎっしりと湾を埋め尽くしている船。
 一隻一隻に、百合をかたどったフィオルナの紋章入りの旗がへんぽんと翻っている。
 「フィオルナだ!」
 「異教徒どもだ!」
 その声に応える代わりにフィオルナの船から飛んできたのは、大量の矢。
 しかも、火矢だった。


 「マジェスティーナ!」
 奴隷が慌てて飛んでくる。
 「どうしたの」
 「大変です、敵がとうとうやってきました!」
 「…来たのね」
 ソフィーダはきっと唇を噛んだ。
 「火矢を放っているせいで、船や、港のものが次々に燃えていっております!」
 「!」
 ソフィーダも、回りにいた奴隷達も、一瞬息が出来なかったほど驚いた。
 火矢まで準備してあったとは。
 「…マジェスティは、マジェスティは御無事なんでしょうね!?」
 真っ先に彼女が気になったのはやはりそれだった。
 「分かりません。兵士達がおりますので、勿論、お護りしているとは思いますが…」
 「とにかく、見に行くのよ!」
 ソフィーダは言うが早いが先程までアードが居た物見台に向かった。レーゼが付き従う。
 物見台に居た兵士達はソフィーダの姿を見るや、慌てて畏まった。アードは比較的見慣れていても、後宮の奥深く居るソフィーダに拝する機会など滅多にない。また、直接顔を見るのは無礼にもあたる。
 しかし今そんなことを気にしている余裕など、ソフィーダにはなかった。
 港の方では、既に船のあちこちに火の手があがっていた。船だけではない、ルッテル・ドナの港にも火が見える。
 足ががくがくと震えだした。
 「…マジェスティ…」
 今は、ここからもフィオルナの船が見える。
 マルク灯台で見た船だった。
 「マジェスティーナ」
 その時、背後から一の大臣フィヤン・ガリスの声がした。
 「お探し申し上げましたぞ。なにとぞ、後宮にお戻り下さい」
 「冗談ではないわ」
 「少なくとも王宮は安心です。先程、マーリドの結界が完成したとの報告が祭祀所よりもたらされました。異教徒は、入ろうとした瞬間にマーリドによって遠ざけられまする」
 「だったら、すぐにマジェスティに戻っていただきなさい。港はあの有り様ではないの」
 「今マジェスティが王宮に戻れば、それは前線の兵士達を見捨てたことになりましょう。士気にもかかわります。マジェスティには居ていただくより他ありませぬ」
 「そんな!」
 「それに、私めがお察し申し上げる限り、この状況で王宮に戻って下さいとお願いしたところで、逆にマジェスティの御不興を被ると思うのですが」
 「…」
 確かに、そうだった。戦っている兵士を見捨てて逃げるような帝王ではない。
 それでも、今は戻って欲しかった。
 「ソフィーダ様には、安全にすごしていただかなければなりませぬ。何とぞ、後宮にお戻り下さいませ」
 「いやよ!」
 反射的にソフィーダは叫んだ。
 「ソフィーダ様」
 伊達にフィヤンは年をとっていない。娘を諭すように、静かに、だが力強く言った。
 「…」
 ソフィーダは少し黙る。
 「……マーリドの結界が完成した、と言ったわね」
 「はい」
 「分かったわ」
 言うなりソフィーダはフィヤンの脇をすりぬけ、駆け出した。

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