帝王妃ソフィーダ
第三十六話

 ルッテル・ドナの港。
 普段は軍用の船より商用の船の方が圧倒的に多い。
 商用の船を全部退避させ、ドッグに眠っている軍用の船を出すと言ったところで、魔法でも使わない限りそれは無理な相談であった。
 ひとまず非常時に備えて常に港にいる軍用の船のうち、一番大きなものにアードはジールを連れて乗り込んでいた。
 ルッテル・ドナは曇っているだけなのに、海の向こうでは相変わらず霧が濃い。
 「こんな妙な天気はは初めてです、マジェスティ」
 「俺も二十数年ルッテル・ドナに住んでるが、初めてだ。冗談じゃないな。フィオルナの船はどこまで来ている?」
 船員と軽口を叩く余裕は、まだあった。
 が、横にいたジールが口を挟むと、アードの表情が変わる。
 「おそらくこちらの準備は間に合いますまい。なんとかルッテル・ドナへの上陸はさけたいところですが…」
 「間に合わせろ。商用の船も含め、ここにある船を総動員するんだ。ルッテル・ドナにもしものことがあれば商売もなにもないだろう。とにかく兵士の用意を急がせろ。それから、港にいる一般人は早々に退避させるんだ。急げ!」


 それから港に居た一般人はとにかく港から離れたところに避難し、兵士は船に順次乗り込んでいく。
 アードはそのまま旗艦となった船に居た。一緒にいたジールは別の船に指揮をとりに行っている。
 王宮の守りとなって残ったフィヤン・ガリスの他大臣たちは、一般人の誘導や手持ちの兵士たちの指揮に当たっている。
 ─ もし、これが原因でルッテル・ドナが落ちるようなことがあったら、俺は御先祖に、ひいてはカリューンに申し訳がたたん。
 そう思うとアードの顔が自然に引き締まった。
 その時、サラディンがやってくる。彼は警察総監として、ルッテル・ドナ一般市民の避難誘導にあたっているはずだった。
 「マジェスティ」
 「おう、どうした?民の避難は終わったのか?」
 「配下のものが滞りなく進めております。御安心下さい。それよりマジェスティ、一つ思い付いたのですが」
 「何だ?」
 「この霧です、相手がなかなか見えませんが、待っているわけにもいきません。
 そこで、『鉄の馬』を使わせていただきたく、お願いいたします」
 「『鉄の馬』?」
 「はい」
 アードにもサラディンの意図はわかった。「鉄の馬」で、空中からフィオルナ軍の様子を探ってこようということである。
 しかし…。
 「一人では危険だぞ」
 「団体で行くわけにもいきません」
 「それはそうだが…」
 「お願いします」
 うーん、とアードは唸ったが確かに敵の情報は欲しい。
 「分かった。許す。だが、あの婆もいるはずだ。くれぐれも気をつけろよ。
 ああ、あと王宮に戻るならついでに祭祀所へ行ってくれないか。マーリドの結界がもうすぐ完成するはずだ。その進行状況を聞いておいてくれ」
 「御意」


 
 ソフィーダは、とりあえず着替えていた。どこに避難するのか分からないのである。まずは身だしなみを整えておくのが先決だった。
 正装まではいかないものの、帝王妃がそれなりにきちんとした身だしなみを整えるとなると、多少は時間もかかる。その間レーゼは祭祀所へ使いに出されていた。ソフィーダの兄、ムスティールに現在の状況を確認してきて欲しいとソフィーダから頼まれたのである。
 だが、ムスティールへの取り次ぎは受け付けられなかった。魔霊の結界があと一息で完成するため、手が離せないとのことである。
 途方に暮れていると、サラディンがやってきた。
 「サラディン様」
 「レーゼか。どうした?」
 「ソフィーダ様に頼まれて、祭祀所に状況を確認しに来たのですけれど…。ムスティール様はマーリドの結界で手一杯で、お取り次ぎいただけなかったのです」
 「まだ完成してないのか」
 「ええ。あと少しのようですけど」
 「どのくらいだ?」
 「あと一時間もあれば完成する、とのことです」
 「一時間か…なんとかなるか」
 魔霊の結界は異教徒の進入を妨げる。もし、船の戦で負けたとしてもフィオルナ軍はこの王宮には手出し出来ないというわけだ。
 だが、籠城する羽目になるので、結局は何か他の手を打つ時間稼ぎにしかならないのだが。
 「サラディン様は?」
 「俺は今から『鉄の馬』で相手の状況を見てくる」
 「お一人で?」
 「ああ」
 「危険ではないですか?」
 「安全な任務は俺の仕事ではない」
 「そんな…」
 「時間がない。行ってくる。マジェスティーナをよろしく頼む」
 「………はい」
 サラディンは簡単に言うが、フィオルナにはあのベヴィア・マイアもいるのだ。先日、大きな烏に変身し、雷さえ操った魔術使いである。
 そして、サラディンは彼女の右手を切り落としたという因縁もあるのだ。本当に大丈夫なのだろうか。
 ものすごく不安だったが、レーゼは見送るしかなかった。彼女もまた、女主人を守るという重要な任務があったのである。
 急いで祭祀所から戻ると、ソフィーダの着替えは終わっていた。
 ソフィーダによく映える緋色の上着に、わざと大きくぎざぎざ切ってある薄手の布を3回ほど巻きつけて裾に動きを出した同色の長いスカート。勿論金糸銀糸で細かく美しい刺繍が施されている。式典に参列するわけではないので華美な装飾等は避けるものの、美しく刺繍され宝石のちりばめられた飾りベルトに、サンダル。
 ヴェールはこれ以上は無理というほど透けるように薄いものを付け、顔の右側で留める。
 たっぷりとした漆黒の髪は簡素にゆわせ、宝石のついた飾りピンで留められていた。
 化粧はもともとしていたが、きちんと直し、更に普段の化粧より丁寧に手も加えられている。
 つくろわぬ、普段着の時でさえ人々を圧する美しさを持つソフィーダである。
 きちんと身だしなみを整えた彼女は、「美しい」の一言ではすまされなかった。普段から傍近く仕えている奴隷達でさえ、感嘆の溜息をつかずにはいられなかった程である。レーゼも例外ではなかった。
 美しさに圧倒されながらソフィーダの部屋に入り、いつもは寝そべっている長椅子にきちんと座っている女主人の足下に跪いて戻った報告をする。
 「おかえり。どう、レーゼ。わたくしはきちんと出来ている?」
 「……はい…」
 「どうしたの、気の入らない返事ね」
 「だって、あまりにお綺麗で……」
 「ふふ、ありがとう」
 ソフィーダはにっこりと笑った。
 「こんなときに着替えをするのなんてどうかという人もいるかもしれないけれど、わたくしにとっては大事なことなの。気合を入れる、という感じかしら」
 言うだけあって凛とした気配が漂っている。全く、この人は生まれながらの帝王妃だと周りにいた誰もが思っていた。
 「それで、レーゼ。どうだったの?」
 「はい。ムスティール様は只今マーリドの結界を張っているのでお取り次ぎはかないませんでした。ですが、結界はあと1時間ほどで完成するとのことです」
 「そう。お兄様もずっとお休みになってらっしゃらないはずだわ。心配ね…」
 「それから、祭祀所で警察総監殿にお会いしました」
 「サラディンが?何で?」
 「『鉄の馬』でフィオルナ軍の様子を探ってくるそうです」
 「大丈夫なのかしら…」
 「ええ…」
 わずかに沈んだようなレーゼを見て、ソフィーダは勘を働かせた。
 「……あら。レーゼ、そういうことだったの?」
 「は?」
 「まあ…わたくしのレーゼも、いつの間にか大人になるものね。急に老けた気分だわ」
 ころころと笑う。レーゼは何がなんだか分からず、彼女らしからぬきょとんとした顔をした。
 「レーゼ、耳をお貸しなさい」
 「…?」
 わずかに身を起こし、恐れ入ります、と言いながらソフィーダの口元に耳を近づける。なにごとかソフィーダが囁くと、
 「ち、違います!そんなんじゃ…!」
 頬が紅に染まった。
 「わたくしの目は誤魔化せなくてよ、レーゼ」
 こんな時だというのに、ソフィーダはにっこりと笑ってみせたのだった。

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