アードはジールを従え、王宮の一番高い物見台に向かった。
「ちっとも見えないじゃないか」
いきなり不満を述べる。確かに、おりからの霧のせいで城下町すらぼんやりとしか見えなかった。これでは王宮にいても仕方がない。
「…変ですね」
ジールが呟く。
「何でだ?」
「霧がかかっているのはいいとします。ですが、なんというか、『霧がかかるのを分かっていて、攻めてきた』ような気がしてならないのですよ。タイミングがよすぎます」
「あの婆のせいか」
「…かもしれません。しかし、完全に出し抜かれたのは確かです。ルッテル・ドナにも海軍はありますが、間に合いますかどうか。とにかく、一刻も早く準備をせねばなりません」
「その通りだ。いきなりルッテル・ドナを落とされたのでは話にならん」
言うと、アードはいきなり向きを変えて走り出した。
「海軍の用意を!!」
フィオルナ側では、ファーレンダイン王が乗った船にベヴィア・マイアが戻ってきていた。
まだレスト・カーンまでしばらくあるので、王は船室にいる。
「我が王よ、只今戻りました」
「おお、婆よご苦労であった。して、異教徒どもの反応はどうであったか」
「既にタチアナ様が亡くなったことは公表されております。しかも、我らにとって都合のいいことに、『病死』ということになっておりまする」
「そうか」
それでは、こちらが攻めるのに何の不都合もない。
ファーレンダイン王は椅子を蹴って立ち上がり、船室から甲板に出た。
霧がかかっているはずなのに、フィオルナの船からはレスト・カーン方面が見えるようになっている。
霧も含め、全てベヴィア・マイア及び「鴉の目」の魔術だった。
さすがにここまで大掛かりなものとなると、力を使い果たして死んだものも一人や二人ではなかったが、仕方がない。
千載一遇のチャンスだ。
「聞け、フィオルナの勇者達よ!」
ファーレンダイン王はその熊のごとき身体から、大音声を発した。
「我が妃タチアナ・ディアナは、修道院の帰りに海賊に攫われ、宿敵レスト・カーンに売り飛ばされた。更にその地では奴隷としてレスト・カーン後宮に容れられ、病気を放っておかれ、亡くなってしまった。
このような残虐非道を許しておいて、よいものなのか!
これは聖なる戦いである。異教徒に辱められ、その命すら奪われた我が妃を弔うための戦である。
フィオルナの勇者達よ、臆せず戦え!正義と勝利は我らの手にある!今こそ宿敵レスト・カーンを倒し、フィオ・バルーナの神に異教徒の血を捧げるときである!」
演説に呼応し、鬨の声があちこちから上がる。
「ファーレンダイン王、万歳!」「異教徒どもを許すな!」「勝利を我が手に!」等々の台詞を聞きながら、ファーレンダイン王は満足げにうなずいた。
後宮では、ソフィーダが奴隷頭から報告を受けていた。
「なんですって?」
「ですから、ルッテル・ドナにフィオルナの艦隊が迫っているそうです。王宮は海から離れておりますので、流れ矢などが飛んでくることもないでしょうが、万が一のこともありえます。何かの時にはすぐ避難できるよう、準備をお願いいたしますとの連絡が、大臣方より入っております」
「一体何の準備がいるというの。それより、避難を考えなければならないほど近くまで来ているの?」
「そのようです。霧で発見が遅れたようですが…」
「…」
ソフィーダは、はっと思い出した。マルク灯台で見た、たくさんの船。
あれが全部攻めてきているのだとしたら、尋常な数ではない。
「マジェスティは、どちらにいらっしゃるの?」
「既に港に向かっておられます。陣頭で指揮をとられるおつもりのようです」
「何ですって!?大臣たちは何をしているの!?」
「さあ…存じませぬが…」
まあ、あの帝王のことだ。大臣たちが何と言おうと、結局自分が陣頭に立ちたがるのは確かだろう。
自分も港に行きたいのはやまやまだったが、何が出来るというわけでもない。あの船の数、何かあるだろうというのは予想がついたことだ。帝王への報告を怠ったのは完全に自分の失態だった。
ソフィーダは唇を噛んでから立ち上がる。
「ソフィーダ様?」
「いいわ、分かりましたと伝えて頂戴」
「は…」
奴隷頭は一礼して下がる。
「ソフィーダ様…」
いつものようにソフィーダの足下にいたレーゼが、やや心配そうに彼女の主人を見た。
「何とかしたいけれど、どうにもならないのよね…嫌だわ、そういうのは」
「ソフィーダ様は、御自身の安全を確保なさることがお仕事ですよ」
「そんな仕事はごめんだわ」
大きく溜息をつくと、ソフィーダは元座っていた長椅子に再び腰をかけた。
「第一、避難と言ったってどこに逃げるというの?この王宮が危ないようだったら、逃げ場なんてどこにもないのよ?」
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