帝王妃ソフィーダ
第三十五話

  アードはジールを従え、王宮の一番高い物見台に向かった。
 「ちっとも見えないじゃないか」
 いきなり不満を述べる。確かに、おりからの霧のせいで城下町すらぼんやりとしか見えなかった。これでは王宮にいても仕方がない。
 「…変ですね」
 ジールが呟く。
 「何でだ?」
 「霧がかかっているのはいいとします。ですが、なんというか、『霧がかかるのを分かっていて、攻めてきた』ような気がしてならないのですよ。タイミングがよすぎます」
 「あの婆のせいか」
 「…かもしれません。しかし、完全に出し抜かれたのは確かです。ルッテル・ドナにも海軍はありますが、間に合いますかどうか。とにかく、一刻も早く準備をせねばなりません」
 「その通りだ。いきなりルッテル・ドナを落とされたのでは話にならん」
 言うと、アードはいきなり向きを変えて走り出した。
 「海軍の用意を!!」


 フィオルナ側では、ファーレンダイン王が乗った船にベヴィア・マイアが戻ってきていた。
 まだレスト・カーンまでしばらくあるので、王は船室にいる。
 「我が王よ、只今戻りました」
 「おお、婆よご苦労であった。して、異教徒どもの反応はどうであったか」
 「既にタチアナ様が亡くなったことは公表されております。しかも、我らにとって都合のいいことに、『病死』ということになっておりまする」
 「そうか」
 それでは、こちらが攻めるのに何の不都合もない。
 ファーレンダイン王は椅子を蹴って立ち上がり、船室から甲板に出た。
 霧がかかっているはずなのに、フィオルナの船からはレスト・カーン方面が見えるようになっている。
 霧も含め、全てベヴィア・マイア及び「鴉の目」の魔術だった。
 さすがにここまで大掛かりなものとなると、力を使い果たして死んだものも一人や二人ではなかったが、仕方がない。
 千載一遇のチャンスだ。
 「聞け、フィオルナの勇者達よ!」
 ファーレンダイン王はその熊のごとき身体から、大音声を発した。
 「我が妃タチアナ・ディアナは、修道院の帰りに海賊に攫われ、宿敵レスト・カーンに売り飛ばされた。更にその地では奴隷としてレスト・カーン後宮に容れられ、病気を放っておかれ、亡くなってしまった。
 このような残虐非道を許しておいて、よいものなのか!
 これは聖なる戦いである。異教徒に辱められ、その命すら奪われた我が妃を弔うための戦である。
 フィオルナの勇者達よ、臆せず戦え!正義と勝利は我らの手にある!今こそ宿敵レスト・カーンを倒し、フィオ・バルーナの神に異教徒の血を捧げるときである!」
 演説に呼応し、鬨の声があちこちから上がる。
 「ファーレンダイン王、万歳!」「異教徒どもを許すな!」「勝利を我が手に!」等々の台詞を聞きながら、ファーレンダイン王は満足げにうなずいた。


 後宮では、ソフィーダが奴隷頭から報告を受けていた。
 「なんですって?」
 「ですから、ルッテル・ドナにフィオルナの艦隊が迫っているそうです。王宮は海から離れておりますので、流れ矢などが飛んでくることもないでしょうが、万が一のこともありえます。何かの時にはすぐ避難できるよう、準備をお願いいたしますとの連絡が、大臣方より入っております」
 「一体何の準備がいるというの。それより、避難を考えなければならないほど近くまで来ているの?」
 「そのようです。霧で発見が遅れたようですが…」
 「…」
 ソフィーダは、はっと思い出した。マルク灯台で見た、たくさんの船。
 あれが全部攻めてきているのだとしたら、尋常な数ではない。
 「マジェスティは、どちらにいらっしゃるの?」
 「既に港に向かっておられます。陣頭で指揮をとられるおつもりのようです」
 「何ですって!?大臣たちは何をしているの!?」
 「さあ…存じませぬが…」
 まあ、あの帝王のことだ。大臣たちが何と言おうと、結局自分が陣頭に立ちたがるのは確かだろう。
 自分も港に行きたいのはやまやまだったが、何が出来るというわけでもない。あの船の数、何かあるだろうというのは予想がついたことだ。帝王への報告を怠ったのは完全に自分の失態だった。
 ソフィーダは唇を噛んでから立ち上がる。
 「ソフィーダ様?」
 「いいわ、分かりましたと伝えて頂戴」
 「は…」
 奴隷頭は一礼して下がる。
 「ソフィーダ様…」
 いつものようにソフィーダの足下にいたレーゼが、やや心配そうに彼女の主人を見た。
 「何とかしたいけれど、どうにもならないのよね…嫌だわ、そういうのは」
 「ソフィーダ様は、御自身の安全を確保なさることがお仕事ですよ」
 「そんな仕事はごめんだわ」
 大きく溜息をつくと、ソフィーダは元座っていた長椅子に再び腰をかけた。
 「第一、避難と言ったってどこに逃げるというの?この王宮が危ないようだったら、逃げ場なんてどこにもないのよ?」

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