アードが訪れたのは、それからしばらくたってのことである。
その頃にはレーゼも泣きやんでおり、ソフィーダもそろそろ寝ようとしていたところだった。
「じゃ、レーゼはもうお下がりなさい。ゆっくり休むのよ」
その言葉にレーゼは素直に従い、ソフィーダの寝室を後にする。
部屋にはアードとソフィーダが残った。
「寝るか」
「はい」
いつものようにアードはソフィーダを抱き上げ、寝台に向かった。
今日はそっと降ろす。
「マジェスティ」
降ろされたソフィーダは身体を起こし、寝台の上にきちんと正座した。
「どうした?」
「きちんと、お詫びとお礼を申し上げなければと思って」
「何の?」
「まず、軽率な行動をとって畏くもマジェスティの御心を騒がせ、御迷惑をおかけしたこと、幾重にもお詫び申し上げます。そして…助けていただいて、ありがとうございました」
「…むずがゆい。お前がそんなこと言うなよ」
「でも」
「いいから」
アードはソフィーダの手を取ってあっというまに元の通り、横にする。
「マジェスティ!」
「…いいから」
ソフィーダの上にかぶさり、きつく抱きしめたままアードは囁くように言った。
「無事に戻ってよかった」
「…マジェスティ…」
しばらく静かな時が流れた後、ソフィーダはもう一つ言うべきことを思い出した。
「イーエンのこと…お悔やみ申し上げます」
「ああ、うん」
気のない返事だな、とソフィーダは思った。必要以上に沈まれてもそれはそれで嫌だが、このように気のない返事もあまり好きではなかった。
「…あいつ、死んじゃったんだよなあ」
またしばらくの後、アードがぽつりと言った。
「マジェスティ?」
「お前が攫われてさ。それから色々あって、タチアナが殺されて…話、聞いたか?」
「はい」
「…ともかく、お前を取り戻すのが先だったから、ばたばたして…葬儀のこととか何も、考えつかなくて…そういえば、あいつの腹の中には俺の子供もいたんだなあって、さっき思い出したくらいで…」
「はい」
「今まで俺、お前を何とかして無事に取り戻すことばっか考えてて、タチアナのことは考えてられなくて…俺、すごい冷たい人間なのかもしれないな。人が死んだこと、忘れられるんだもんな」
「マジェスティ」
「冷たい人間が、マジェスティの座についてていいのかね。カリューンは俺をお許し下さるんだろうか」
ソフィーダは、胸がいっぱいになった。
ぎゅっ、とアードを抱き返す。
アードの身体は震えていた。
仰向けになっているソフィーダには、天窓越しにごく細い月と、きらめく星が見える。
耳にはかすかに、庭の鳥や虫がしずかに鳴く声が聞こえていた。
帰ってきたんだな、と思った。
しばらくそのまま抱きあった後、ソフィーダはゆっくりと話しだした。
「人は、そんなに沢山のことを一度には出来ませんもの」
「…」
「一生懸命、わたくしを助けて下さって…それが片づいたら、ちゃんと、忘れないで悲しんで…。
それでいいんだと思いますのよ」
「いいのか?」
「だって、忘れてらっしゃらないんですもの」
「…」
「そして、今悲しんだら、明日にはちゃんと晴れ晴れした顔で政務をなさることが出来るんですわ。わたくしには分かります。だから、マジェスティなんですもの」
「それは、冷たいって言わないのか?」
「言いません」
ソフィーダは言いきった。
「上に立つ御方は、笑ってらした方がいいに決まってますもの。
そしてね、悲しむ心もちゃんとおありになる方がいいんですのよ。それから、攫われた妻を取り返そうとする心も。
心がおありになるかどうかが重要なのであって、いっぺんに色んな感情を処理できなくても、いいんですわ」
本当は、確信などなかった。
でも、アードの震える声が、身体があまりに愛おしくて、否定など出来ない。
「誰も、マジェスティのことを責めることなど、出来ませんわ」
そしてね、わたくしだから分かりますの。彼女は、不幸ではありませんでしたのよ。
だって、マジェスティを愛したんですもの。母国も、王妃の地位も捨てて、マジェスティを愛し通したのですもの。御子まで授かって…不幸であったはず、ありません」
─ 多分、わたくしだから分かる。きっと、わたくしがその立場でも、同じようにしたかもしれない。
「…そうかな」
くぐもった低い声で、アードが呟くように言った。
「そうですわ」
「………」
アードはしばらく動かなかった。身体の震えは止まっていた。
ソフィーダは静かにアードの重みと暖かさを感じている。それは、幸せだった。
「……とう」
大分経った後、アードがかすかな声で言った。
「いいえ」
ソフィーダは優しく言って、アードの頭を撫でる。
「俺は、マジェスティで居ていいんだな」
「勿論です」
「………ありがとう」
アードの手に、もう一度強く力が入った。
そして、翌朝。
国内に正式にタチアナの死が発表され、葬儀は二週間後と決まった。
死因は「急病」ということになっている。
帝王の御子を身籠もっていたこともあり、もしかして帝王妃の手によるものでは…という疑いを持ったものが全くいなかったかといえば嘘になるが、さすがに公に言うことは出来なかったようだ。
下手に「フィオルナの手の者に殺された」と言って事を荒立てるわけにもいかない。表面的には何の問題もなく終わった。
だが更にその二日後、政務に取りかかろうとして玉座についたアードに、五の大臣ジール・ガリスが大変な知らせを進言する。
「マジェスティ」
「何だ?」
ジールの表情は、苦渋に満ちていた。
「フィオルナから、使者が来ております」
「ほほう、性懲りもなく」
「…呑気に構えている場合ではありません」
「どういう意味だ?」
「つまり ─ 」
ジールが言うより早く、政務の間の入り口にその使者が姿を表した。
さすがのアードも息を飲む。
「お久しゅうございます、レスト・カーンの王よ」
ニタリと不気味な声で挨拶をしたのは、災いの老婆、ベヴィア・マイアだった。
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