帝王妃ソフィーダ
第四十二話
 王宮から光の柱が三本あがった。
 そのうちの蒼い一本が、渦を巻いて実体化する。
 ラッラ・ウルバーンだった。かの「貴婦人」は一番上の手を優雅に羽ばたかせ、不敵に微笑む。
 そして、回りには何百体もの魔神が集まりつつあった。
 「我が眷族達よ、行け!」
 言って、ラッラ・ウルバーン自身が先陣をきった。魔神たちの身体は風となり、一瞬で港にたどりつく。
 柔らかな風がレスト・カーンの船を護った。そして、それとは対照的に激しい風がフィオルナの船から飛んでくる矢をはじき返し、船を大きく揺らせる。軽い船は簡単にひっくり返った。
 「どういうことだ!?」
 フィオルナ側は面食らった。慌てて矢を射るのを止めたものの、大きく揺れる船は止められない。残り少なくなった霧もあっという間に晴らされてしまった。
 「婆よ、どういうことだ!?妖術が使えているではないか!」
 「これは…」
 さすがのベヴィア・マイアも言葉を失った。今、魔神たちはその姿をわざと顕にしている。異形のものたちが次々と襲い来る様に、フィオルナの兵士達はすっかり度肝を抜かれている状態だ。
 一方レスト・カーン側の兵士達は、手を打って喜んでいる。祭祀所の神官が間に合ったものだ、と誰もが思っていた。
 不思議に思ったのは帝王と大臣たちである。祭祀所の神官は、魔霊の結界で手一杯だったはずだ。
 では、誰が?
 「…まさか」
 自船の兵士達が陸に向かったのを確認し、自身もまさに小舟に乗り移ろうとしていたジールは小さく呟いた。
 ありえない。ありえないが、しかし………。
 一方アードとリヤドは、血の気の失せた顔を向きあわせて、ジールと同じ台詞を吐いていた。
 「…まさか」


 二本目。紅に染まった光の柱が、炎と共に実体化する。
 グエユ・キーリ。
 「我が眷族どもよぉぉ!!」
 大地を揺るがすその声と共に、天から地から炎を纏った獣の姿をした鬼神達がこれも何百体と集まってくる。
 その様は全く、王宮のみならずルッテル・ドナ全体が紅の炎に包まれたかのようであった。しかし、グエユ・キーリのそれと同じく実際に熱くはない。幻だった。
 グエユ・キーリはその手を大きく広げた。
 鬼神達が一斉に咆哮をあげる。
 「行けぇぇ!!」
 弾かれたように鬼神達は四散して岬に向かった。そこには、上陸して王宮を目指すフィオルナ軍がいる。
 「!!」
 「将軍!あれは…!」
 フィオルナの兵士達は声にならない叫びをあげた。紅蓮の炎がすさまじい勢いで迫ってくる。と思うと、目の前の地面が大きく揺れ、雄叫びと共に炎を纏った鬼神が姿を表した。
 「うわあああっ!」
 軍馬は驚いて乗り手を落とし、歩兵たちも我先にと逃げ出す。本能的に、敵う相手ではない。
 鬼神達は一体一体が馬の二倍はあろうかという体躯だ。その鬼神達は次々とフィオルナ軍を駆逐していく。
 岬に向かう途中だった四の大臣率いる兵士達にも、その様は見えた。
 「至高全能のカリューンの御力だ!」
 「カリューンに讚えあれ!」
 まさにそうとしか見えなかった。四の大臣、アブル・アキームはその勢いで兵士達に命令を下す。
 「カリューンは我らを助けたもうた!ものども、アフアリートに続け!異教徒の軍を、完全にこのレスト・カーンから追い払うのだ!!」
 おおっ、と兵士達は鬨の声をあげた。



  三本目の柱は、金色の光を放っている。
 その光の中、ルクス・カリューンはまだ静かに召喚の間でその白銀の翼を閉じていた。
 「マジェスティーナ・ソフィーダ」
 静かに名前を呼ぶ。
 目を閉じていたソフィーダは静かに開き、はい、と低く返事をした。
 ルクス・カリューンによって、魔神、鬼神たちの活躍が手に取るように瞼の裏に見ていたのである。
 ムスティールとレーゼは、召喚の間の壁際で、固唾を呑んで成り行きを見守っていた。もうこうなったら何も出来ることはない。
 「そなたは私たちに、『マジェスティの敵を討ち滅ぼせ』と言ったな」
 「はい」
 「異教徒どもを、ということではなかったから…私に、仕事がひとつ増えた」
 「…?どういう…」
 「つまりだ」
 ルクス・カリューンが少し右手を揺らした ─ と、召喚の間の入り口が開き、そこにいた人物の姿が見える。
 そこにいたのは一の大臣、フィヤン・ガリスだった。
 「フィヤン…?」
 ソフィーダにはわけがわからなかった。
 「この者が、何か…」
 「分からないか?」
 ルクス・カリューンはまた少し右手を揺らした。フィヤンは見えない力に引きずられるように、召喚の間の中央 ─ ソフィーダの真横にやって来る。
 「ソフィーダ様」
 フィヤンは何が何だかさっぱりわからない、という表情でソフィーダを呼んだ。
 「芝居もそのくらいにしておくことだ。カリューンは全てを見られている。
 我が眷族の結界を張り、神官が全て力を使い果たしたところに異教徒の軍が攻めてきたのは、何故だろうかな」
 「えっ…?」
 ソフィーダは大きく目を見開いた。
 「まさか…フィヤン、あなた………」
 「さあ、何故でしょうかな」
 フィヤンはそこでなお微笑んだ。
 「フィヤン!?」
 「糸が、繋がったか…」
 静かに言ったのはムスティールだった。
 「お兄様!?」
 「ソフィーダ。一緒に考えてみよう。
 亡きイーエンには政治的な後ろ盾がなかった。献上したサラディンは警察総監で、大臣ではない。
 もし、お前に御子が出来なくて、イーエンが身籠もった御子が無事に生まれていたら、どうなっていた?」
 「…その御子が…」
 一番考えたくない展開だった。寵姫の産んだ御子が帝位を継ぐしかなかっただろう。
 ムスティールは後を引き取って続けた。
 「その時には、イーエン及びその子の後ろ盾を巡って大臣達の争いが起きていたに違いない」
 「でも、フィヤンは少なくともイーエンに与するようなことは、何も…」
 「別に急いで事を起こす必要はない。その御子が生まれてから ─ 更に、お前に御子が宿るか宿らないか確認してからでも遅くはないのだ。ソフィーダ、その男の最も恐ろしいところは『待つ』ということを知っているということだよ」
 兄の言葉に、ソフィーダは思考をめぐらせた。
 確かに、その通りである。帝王の位は帝王妃が産んだ御子に優先権がある。何もその可能性がまだ完全になくならないうちに旗色を顕にしなくてもよいのだ。逆に、顕にすれば引っ込みがつかなくなる。
 しかし、裏から手を引いて帝王妃を害すくらいのことはやってもよいだろう。
 …だとしたら、自分が誘拐されたのはフィヤンの手引きあってこそだったのか。
 後宮には、一から七の大臣ならば入ることが出来る。必然、内部の構造を知るのも…。
 そこまで考えただけでも恐ろしかったが、ソフィーダは更に先を考えた。
 ファーレンダイン王の気まぐれでタチアナは殺された。フィヤンにとっては手駒を失ったわけだが、それとてどうということはない。帝王妃が帰ってきてもこなくても ─ こない方がよかったとは思うだろうが ─ 構わない。また別の寵姫を探せばいいことだ。
 更に、軍備を整えていたフィオルナに呼応して魔霊の結界を張らせる。帝王妃が誘拐されるという非常事態があった後だ。不自然ではないだろう。そして主立った神官は全て使い物にならなくなる。
 「…でも…。フィオルナに攻め落とされたらフィヤンの地位だって…」
 「間違いなく害されるのはマジェスティ。そしてお前だ。レスト・カーンは属国に成り下がるだろうが、その土地を良く知る統治者は必要だ」
 ムスティールが補足する。
 ソフィーダは慄然とした。
 「もう少し言えば…それとて失敗しても構わない。証拠がなければな。万が一奇跡が起きてフィオルナを撤退させることが出来たら、何食わぬ顔をして元の地位にいればいいだけの話だ。その男は何も失うものがないのだよ、ソフィーダ。
 一の大臣だから…マジェスティーナが起こす奇跡は知っていた。おそらく、それも計算に入っていた。それとて、失敗しても成功しても構わなかったのだ」
 「…!」
 恐ろしさに身体が震える。一緒に聞いていたレーゼは却って硬直していた。
 王宮の守りとして残ったのも、ただ戦乱に巻きこまれないようにするだけの為。
 そして、先程物見台で「後宮にお戻り下さい」と言われたのは身の安全を確保するためではなくて、出来れば祭祀所には行って欲しくなくて…。
 フィヤンは表情一つ変えずにそこにたたずんでいた。ソフィーダはゆっくりとフィヤンの顔を見る。
 たったひとつの計算外。ルクス・カリューンの力さえなければ、レスト・カーンはこの男の思うままに動いていたのだ。
 …しばらくの後、帝王妃はやっと口を開いた。
 「ジールは、関わっているの?」
 「いいえ」
 フィヤンは首を振った。
 「あれは情に溺れすぎるところがありまする…特にあなた様やマジェスティに対しては」
 「そう。ならよかったわ。
 でももう一つ。分からないことがあるわ、フィヤン」
 「何ですかな」
 「あなたは一の大臣という揺るぎない地位にいるはず。息子のジールとて、五の大臣という高い位にいる。
二の大臣リヤド・レギオンの息子、ムスティール・レギオンは神官で政治に口出しは出来ない。ガリス家は安泰のはず。
 だのに、何故?」
 「マジェスティーナ」
 フィヤンはそこで初めて少し笑った。
 「レギオン家だけではありません。大臣は他にもおります。大臣の位を狙っているものも。用心するに越したことはないのですよ。打てる手は、打っておかねば」
 「…それだけの為に、わたくしのマジェスティを危険に晒したのね?」
 「大人しく王宮にとどまっていて下さる方であれば、もう少しよかったのですがね」
 ソフィーダの身体が、カッと熱くなった。
 「フィヤン…!」
 その時、光が一閃した ─ 一瞬、何が起こったのか分からなかった。
 分かったのは、フィヤンが目を見開いたまま倒れてからである。
 ルクス・カリューンの剣だった。
 「もういいだろう。命に従った。異存はあるまいね、マジェスティーナ」
 その左手の透明な剣を一振りし、ルクス・カリューンはソフィーダに顔を向ける。
 ソフィーダはきっぱりとうなずいた。
 先代から仕えてきたこの者の真実を帝王が知ったら、どれほど心を傷めるだろうか。同情の余地はなかった。
 「では、最後の仕上げをしに行こう。共に来るがいい、マジェスティーナ・ソフィーダ」
 ルクス・カリューンはその白銀の翼をゆっくりと開いてふわりと浮かぶ。
 ソフィーダも一緒に浮かび上がった。
 金色の光に、吸い込まれてゆく。

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