目が覚めた場所は、全く知らない場所だった。
自分に何が起こったのかもよく分からない。
― 何がどうしたのかしら?
確か星の綺麗な晩だったから…レーゼと一緒に中庭で星を見ようと思って…。
レーゼに飲み物を取りに行かせて、待っていたら………?
そこから先の記憶が定かでない。
が、どうやらかどわかされたらしいということは想像がついた。
「全く、ろくな目に遭わないわ」
割と呑気なことを言い、ソフィーダは体を起こす。
自分が寝かされていたのは粗末なベッドだった。
明かりが消えていて、目が慣れてあたりが見渡せるまで時間がかかったが、どうやらごく狭い部屋だということが分かった。
そろそろと手を伸ばして付近の壁を撫でる。冷たい石だった。
窓は鎧戸らしきものがあったが、がたりと閉じられている。
…というか、ソフィーダはそんな窓を見たことがなかった。
「どこなの、ここは?」
牢獄なのだろうか。であれば、どうして?
その時、扉が重たい音をたてて開いた。
と、ともにろうそくの明かりが目に入り、まぶしくて目を細める。
入ってきたのは一人の老婆だった。
「お目覚めですか、レスト・カーンの王妃様」
「…」
不快な声だった。ソフィーダは返事をする必要を認めず、黙ったままでいた。
「お目覚めのようですな。王がお会いになられます。こちらへ」
― 王?
なんのことだかさっぱり分からなかった。こちらへ、と言われても行っていいものかどうかよくわからない。
ひとまず。
「無礼者。そなたは何者なの?わたくしをレスト・カーンのマジェスティーナと知っての行い?」
たいがいの者が気圧されるその雰囲気に、老婆は身じろぎもせずに返した。
「知っておりますじゃ。だからこそお連れし、だからこそ我が王がお会いになるのです。レスト・カーンの王妃よ。いくら虚勢をはったところでここは…あなたからすれば、敵陣の中にあたりますじゃ。御身が可愛ければ、言葉を慎むことをおすすめ致しまする」
「…」
ソフィーダの背筋に冷たいものが走った。
なんなのだ、この老婆は。
だが、とりあえず従うしかなさそうだった。非常に屈辱的なことながら、彼女はベッドを降りて老婆の方に歩む。
そのときふと思い当たった。
「…王、と言ったわね」
「はい」
「殿方なのね?」
「その通りですが」
「ヴェールを用意しなさい。レスト・カーンのマジェスティーナともあろうものが、余所の殿方に素顔をさらすわけにはいかないわ」
「そんなものはありませぬ。必要もないことですじゃ」
「なら行かないわ」
その屈辱には耐えられない。
果たして、老婆は溜息をついた。
「レスト・カーンの王妃様は、げに強情でいらっしゃる。少しお待ちあれ」
老婆が口の中でなにやらぶつぶつと言い、その手にはまっていた大きなルビーの指輪がきらりと光ったかと思うと ― 手の中に白い羽で出来た扇が現れた。
― 魔法…?
「これで代用めされ」
それ以上は交渉不可能とばかりに老婆は扇をソフィーダに押しつけ、背を向けて歩き出す。
渡された扇をソフィーダはしっかりと持ち、老婆のあとに続いた。
石で出来た階段を降りに降りてやっとたどり着いた先には、木で出来た粗末な扉があった。
見張りがいる。
レスト・カーンの兵士とは明らかに違った格好は、見覚えがあった。
― フィオルナ?
見も知らぬ国よりはましなのかもしれないが、それにしたって自分が連れてこられる理由が分からない。
見張りが扉を開け、老婆が先に部屋に入る。扉が閉められた後、
「王よ、お連れいたしました」
「おお、婆か。ご苦労」
中は、泣きたくなるほど狭い部屋だった。粗末なテーブルと椅子があり、壁にはフィオルナの国旗が掲げてある。やはりフィオルナか、とソフィーダは心の中でうなずいた。
部屋の中心には、むくつけき大男が立っている。
着ている物は悪くなさそうだ。
― これが、王?
ソフィーダは扇の陰で眉をひそめた。全く、カリューンもよくしたものだ。異教徒には異教徒にふさわしい、野蛮な見かけの王をお与えになる。
「これがレスト・カーンの王妃か。扇をどけられよ」
― 誰が。
心の中でソフィーダは舌を出した。蛮族の王に見せる顔などない。
「王妃よ、王直々の仰せ。扇をどけられてはいかがか」
横にいた婆に肘でつつかれた。気持ちが悪い。ぞっとする。
ソフィーダは一つ息をついてから一気に言った。
「カリューンの神を奉じない輩の言うことをきく義理はないわ。わたくしを勝手に攫ってきて、名乗りもせずに非礼なこと。礼儀を知らない輩に見せる顔はありません。それから、わたくしは勿体なくもマジェスティーナの称号を戴く身。『王妃』などという異教徒の称号で呼ばれるのは非常に不愉快です。わきまえなさい」
「…」
王も老婆もあっけにとられた。
「…なかなか気骨のあるご婦人だ。レスト・カーンの王妃よ。私はフィオルナの王、ファーレンダイン・フェダ・フィオルナ。この婆は私の信頼する部下で、ベヴィア・マイアという。以後見知りおきを。ともかく、その扇をどけられよ。顔が見たい」
「フィオルナの王ともなれば知っているはず。レスト・カーンでは、平民でさえ女性はヴェールで慎み深く顔を隠すもの。そして人妻となれば、夫以外に顔を見せないのが道理。そのくらいの礼儀を知らないとは言わせません」
「ふん」
ファーレンダイン王はつかつかと歩み寄り、ソフィーダの扇をいきなり取り上げるという暴挙に出た。
「!」
「理屈っぽい女は好かん」
「………」
顔を露わにされたソフィーダは、せめてそっぽを向く。
「まあ、そんなに怒るな。王妃よ。どんなものか見たかったのだ」
― なんて無礼な………。
怒りのあまり、物も言えない。
「ふうむ…」
ファーレンダイン王はソフィーダの両手を一方の手で掴み、もう片方の手でソフィーダの顔を自分にむけさせた。
むくつけき外見に恥じぬ力があり、ソフィーダは到底抗えない。
「美しいには美しいが…こんな女にタチアナは負けているのか」
― タチアナ?
あの寵姫の名前が何故今出てくるのだ?
「王妃よ、何故自分がここに連れてこられたか分かっているか?いまいな。
タチアナ、という名前に聞き覚えがあるだろう?」
「…」
「あれは私の妃だ」
「は?」
そこでファーレンダイン王は今までのいきさつを語った。
ソフィーダにしてみれば、寝耳に水もいいところである。
「…というわけだ。レスト・カーンの王妃よ。私の妃は、異教徒の王に奴隷として買われるという屈辱を味わっているのだ。これは耐え難い」
― いつでも返すのに。
そうすればむしろ願ったりかなったりだ。
「返して欲しいが、そちらの王がすんなりと取引に応じてくれるとは思い難い」
「…それで、わたくしを取引の材料にするつもり?」
まだるっこしくなったソフィーダは自ら言った。
とにかく、顔を見られ手を触れられている。この気の遠くなるような屈辱をなんとかしたい。
「それもよし。
だが、私は案外タチアナを愛している。あれの願いは叶えてやりたい。
正妃にしてやるのも愛情のひとつではないか?」
― わけのわからないことを…。
「分かっていない顔をしているな。要するに、そなたがいなければ、私の妃はかの地で正妃になれるかもしれぬだろう?だとしたらそうしてやるのも愛情だということだ」
「……………」
なんということを考えるのか。第一、タチアナはソフィーダがいようといまいと帝王妃にはなれない。ムスティールが保証したのだ。
「無理矢理連れ戻したところで、あれは私を愛すまい。だとしたら私に出来ることは…」
「そして、わたくしを殺すつもり?」
「そんなことはしない。ただ、私の妃が受けた屈辱 ― まあつまり、異教徒の地で奴隷となるというのを自身で味わってもらうだけの話だ」
ソフィーダは血の凍るような気がした。
「それとも、そなたがどうしてもフィオルナの王妃になりたいというのなら、まあ考えてやらないこともないが…」
おぞましすぎる二択だった。
ソフィーダの怒りも頂点にきた。彼女はむしろ、静かに口を開いた。
「あの女は本当にいけ好かないと思っていたけれど、一つだけ認めてやってもいいことがあったわ」
「…どういう意味だ」
「お前ではなく、マジェスティを選んだことよ。殿方の価値を見極める目だけは確かだわ」
「…」
ファーレンダイン王の熊のごとき顔がゆがんだ。怒りを必死に押さえた顔で、かの王は声を絞り出す。
「それではレスト・カーンの王妃に問おう。男の価値とは何なのだ?」
目を背けていたソフィーダはその時はっきりとファーレンダイン王に視線を向け、きっぱりとにらみつけて高らかに言った。
「教えてあげましょう。殿方の価値とはね、ファーレンダイン王。
女が心を奪われるかどうかよ」
「………!!」
今度は、怒りがあからさまにファーレンダイン王の顔に表れる。
ソフィーダは臆することなく、その瞳で射るようにファーレンダイン王を見ていた。
「…つまり、そなたは、私を異教徒の王より価値のないものだと言いたいのか」
「確認しなければ分からないような言い方をした覚えはないわ」
「…」
ソフィーダの手を握るファーレンダイン王の手に、知らないうちに相当な力が入っていた。痛かったがそこはソフィーダのこと、声を上げたりはしない。
…しばらくの後、ファーレンダイン王はソフィーダの手を振り払い、突き飛ばした。
よろけて床に倒れる。
「婆!」
「…なんでしょうか、我が王」
黙って控えていたベヴィア・マイアは、低い声で答えた。
「この女を殺す。タチアナもだ」
「…よろしいのですか?」
「構わぬ。どうせすぐに出来るのだろう?」
ベヴィア・マイアはゆっくりとうなずいた。
|