数日前の、フィオルナ。
王宮の片隅に、ベヴィア・マイアの部屋はあった。
窓がないので昼でも明かりが必要となる、陰気な部屋だった。
この老婆は、あまり陽の光が好きではないのである。
ごちゃごちゃと文献や雑多なものであふれるその部屋の中で、彼女は今自分が指揮する「鴉の目」の一人と向きあっていた。
まだ若い女性だった。はた目には「鴉の目」と悟られぬよう、王宮侍女の格好をしている。
「それで、どうしたのだえ」
「タチアナ様は現在、レスト・カーンにおられます」
「ほぉ。そしてあの王妃は、いったいレスト・カーンのどこにいたのだえ?」
「それが…」
言いにくそうに、彼女は顔をしかめた。
「王宮に…」
「…お前、今、なんと言った?」
「ですから、王宮にいらっしゃいました。レスト・カーン帝王の寵姫となっておられます」
「馬鹿な!!」
さすがのベヴィア・マイアも叫んだ。
「あ、あの王妃は何を考えておるのじゃ?何故、レスト・カーンの、よりによって寵姫だと?」
「はい…たいそう御寵愛厚いようでして…」
「…」
ベヴィア・マイアはしばらく考えた。
フィオルナにいたときから、あのタチアナ・ディアナという女は王妃という地位に立ったにも関わらず、浮ついたところのある娘だった。育ちがいいということも原因の一つであっただろうが、それ以上に本人があまり深いことを考えるのが嫌いな性質だった。
ファーレンダイン王との縁組はタチアナの両親が決めたことだが、本人は「王妃」という地位に憧れてはいたようなものの、夫であるファーレンダイン王は気に入らなかった様子であった。
普通ならばそういった感情は隠すものだが、彼女は隠しもせず、結婚直後に「身を清める」という名目で修道院に向かった ─ 有り体に言えば、「逃げた」のである。
そういったことから鑑みるに、どんないきさつでレスト・カーンの王宮にいるのかは分からないが、おそらく逃げようともしなかったに違いない。
「ふぅ…む………」
ベヴィア・マイアの、どろりとした目が一瞬光った。部下の背に戦慄が走る。
「婆が出向くかの」
ジールが後宮内にあるタチアナの部屋に向かったのは、その日の政務が全て終わってからだった。
もう日は暮れ、夜が始まろうという時間。
タチアナの部屋も、既に明かりがともされていた。
「失礼いたします」
言葉とは裏腹に、ジールはむしろ尊大な態度でつかつかと部屋の中に入った。
広いことは広いが、あまり調度類などはないために何となくがらんとして見える部屋だった。奴隷も少ない。
寵姫タチアナは寝台の上にぼうっと座っていたが、ジールが来た途端慌てて畏まった。
「報告は受けました。懐妊なさったそうですね」
一応ジールは丁寧な言葉を使っているが、対帝王妃の時とは違い、顔をあげてはならぬというきまりはない。ジールはそのまま寝台に近づき、座っているタチアナを見下ろすかたちになった。
「はい…おかげさまで、マジェスティの御子を」
頬をうっすらと染め、タチアナはジールを嬉しそうに見上げた。
「マジェスティの為に、おめでとうと申し上げておきましょう。世継ぎの御子がいなくてはどうしようもない」
「ありがとうございます」
「しかし、これに甘んじて御自分の地位を忘れないことです」
「…どういう…意味ですか?」
「分かりませんか?」
眼鏡の奥の瞳が、凍っていた。
「重要なのはマジェスティの御子です。ということですよ。
安心しなさい、貴女の『イーエン』という気楽な立場は変わりません。大事なのはマジェスティの御子です。それも、予備です」
「…」
「貴女は、何人御子を産もうと、気にすることはありません。大丈夫ですよ」
「……」
タチアナにも、やっと分かった。ジールが暗に、「お前は何人子供を産もうと『寵姫』どまりだ。その上の位が授けられることはない」と言いたいことが。
「あのぅ、ジール様。私はなにも、そんな、だいそれた…」
「野心がないならそれはそれで結構。貴女は今まで通り、マジェスティとマジェスティーナにお仕えすればよいだけの話です。 もし、夢を見ていらっしゃるならお気の毒にと思っただけですので」
「…あの…」
タチアナはうつむいた。
「私が、奴隷出身だから、マジェスティの長子といえど、予備に過ぎないのでしょうか…?」
タチアナにしては上出来の質問だ、とジールは思った。
いっそはっきり、「私は、マジェスティの長子を産んでもマジェスティーナにはなれないのでしょうか」と聞いてきたのなら、謀反の罪に落としてやれるのに。
「いいえ。貴女の出自は関係ありません。
マジェスティーナに御子が授かるにこしたことはない、ということです」
「…」
「体を厭いますよう。では、失礼」
ジールが帰った後のタチアナは、とても沈んだ気分になっていた。
大それたことを望んでいたわけではない…わけではないのだけれど。
予備、と言われたことがタチアナの心に重くのしかかっていた。
頭を振って寝台から立ち上がり、そのまま中庭に散歩に出る。
ものの数歩も歩かないうちに、ふと気配を感じて庭の茂みに目をやった。
「お久しゅう、タチアナ様」
タチアナは、息を呑んだ。
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