帝王妃ソフィーダ
第十三話

 ソフィーダと同じ漆黒の髪と瞳。
 髪は短く刈り込んであり、瞳は大きさといい、意志の強さ、知性の輝き、ともに妹であるソフィーダとよく似ている。
 顔立ちも勿論整っている。神官でなければさぞ花嫁候補が殺到したことだろう。
 神官の制服である鬱金色のローブは、ムスティールの美貌と存在感によって輝くように見えた。
 「お兄様!」
 ソフィーダは気後れせずに兄に呼び掛け、部屋の中を進む。
  兄はソフィーダを見て少し笑った。
 「マジェスティーナ。どうした、こんなところへ」
 「御機嫌伺いですわ、お兄様」
 「嘘をつけ」
 かなりの距離を歩き、ソフィーダとレーゼはムスティールのもとにたどり着いた。
 レーゼは2人からしばらく離れた位置で跪く。奴隷としての決まりだった。
 「嘘だなんて、そんな。何をしていらしたの?」
 「お前にそんな殊勝なところがあるなんて、私は知らなかったよ。御機嫌伺いって言うのはお前の場合、おねだりの様子伺いというのがいいところだと思うのだが、私の読みは間違っているかい?」
 「ひどいわ、お兄様」
 「間違っていると返さないのがお前の正直なところだ」
 ムスティールは笑うと、持っていた本をぱたりと閉じた。
 「先ほどの質問に答えようか?五の大臣に頼まれて、ジンを召喚していたよ」
 「…召喚して、何を?」
 「イーエンについて少し聞いていた」
 「…」
 今、後宮に「寵姫(イーエン)」という身分を持った女性は一人しかいない。タチアナだ。
 「お前が来るなあと思っていたらやっぱり来た」
 ソフィーダはうつむいた。
 「困ったことになったね。イーエンは懐妊か」
 「…」
 「まあそう落ち込むな。無事に生まれると決まったものでもないよ」
 「落ち込んでるわけではありませんわ」
 ソフィーダは、きっと兄を見上げた。
 兄に会うとはいえ、そこはきちんとしたソフィーダのことなのでヴェールで顔の下半分は隠している。
 そうするとソフィーダの場合、印象的な瞳が際立つという効果が自動的に得られるのであった。
 「じゃあ何だい?」
 「お兄様の先程の言葉は、間違っておりませんわ。わたくし、お願いがあって参りました」
 「ほうら、ごらん」
 「マジェスティから里下がりの許可がいただけるよう、何か適当な理由をつけて下さいませ」
 さすがのムスティールも怪訝な顔をせざるをえなかった。
 彼は手にした本を弄びながら、
 「……………………マジェスティーナ。この兄に分かるように、ちゃんと説明してくれることは出来ないかい?」
 「ですから、落ち込んでいるわけではありませんけれど、気分を変えたいというつもりはあるんですの。それで、里下がりをしたいのです」
 「…まあ気持ちは分からなくもないけど、それが『落ち込んでる』というのとどこが違うのか、兄には分からないなあ」
 「でも、マジェスティがやすやすと許可を出して下さるとは思えません」
 大胆にもムスティールの言葉を無視して、ソフィーダは続けた。
 「どうしてだい?」
 「マジェスティは、わたくしがいないと退屈ですもの」
 「…そういうものなのかい?」
 「それだけではありませんけど。マジェスティーナがそうそう後宮をあけるものではない、とか色々」
 「まあ、そうだろうね。で、私にどうしろと言うんだい?」
 「ジンかなにかからお告げがあったことにして、わたくしに里下がりが必要だとマジェスティに進言していただきたいのです」
 「マジェスティーナ、そりゃあズルだよ」
 ムスティールは笑いだした。
 ソフィーダはむくれる。
 ひとしきり笑い終わると、ムスティールはソフィーダの頭を撫でた。可愛くて仕方ない妹だ。
 「すまんすまん」
 「…お兄様」
 「まあ、では本当にジンを呼んで聞いてみよう。お前が里下がりをする必要があるかどうか」
 ムスティールは持っていた本を広げ、下がっていなさい、とソフィーダとレーゼに言った。

 開かれた本を片手に持ち、もう一方の手を額に当てて、ムスティールは目を閉じる。何ごとか呪文を唱えているようだ。
 ソフィーダもレーゼも、魔神召喚の場面を見るのは初めてだった。
 せっかくだから、とソフィーダはレーゼに立っている許可を与える。
 「レーゼ、見ておきなさい。きっと面白いわ」
 「ありがとうございます」
 やがて、ムスティールの手から本が浮いた。あっと思う間もなく、本からするりと半透明のものが姿を現す。
 人間に近いが肌は水色であり、耳の後ろからは2本の細い角が生えている。まだあどけない少年と言ってもいい様子だった。
 着ているものはやはり人間のそれと変わらない ─ 着ているものごと半透明ではあったが。
 「ジン、汝、名は何か」
 「マールザワーン」
 マールザワーンという名前の魔神は、あっさりと名乗った。ムスティールは本を手に戻し、笑って手招きをする。
 その場にとどまろうとするレーゼの手を引っ張って、ソフィーダは兄の近くに来た。
 「さて、マールザワーン。ここにいるのは誰だと思うか?」
 「さぁ。命令なら早くして。僕は帰りたい。さっきも呼ばれてあげたでしょう?」
 マールザワーンは息をするようにとんぼ返りをうつ。ぴょんぴょんと跳ねる。
 ソフィーダもレーゼも、初めて目の当たりにする魔神が珍しく、内心どきどきしていた。
 が、ムスティールは低い声で言った。
 「落ち着け。でないとお前、マールザワーン、ひどい目にあうぞ」
 「なーんでさ」
 「マジェスティーナ、このジンをどう思う?」
 急に振り向かれたソフィーダは面食らったものの、威厳を精一杯保ってマールザワーンを見つめた。
 兄に昔聞いたことがある。召喚とは、相手にのまれたら負けなのだと。
 「生意気ですわ」
 ムスティールは再び険しい顔をして、魔神に向き直る。
 「だ、そうだ」
 またしてもとんぼ返りをうとうとしていたマールザワーンは、ぴたっと止まった。
 「…あなた、さっきイーエンのことを僕に聞いたと思ったら、今度はマジェスティーナだって?
 何が一体どうなってるの?なぜあなたが、マジェスティーナがここに?」
 「お前に聞く権利はない。しかしこれで、ことの重要性は分かってもらえたな?」
 「…」
 マールザワーンは神妙な顔つきでうなずくと、ソフィーダを見た。
 「…ホントに、マジェスティーナ?」
 「お前なら分かるだろう。彼女がマジェスティーナの資格を持っているかどうか」
 ふわりと浮いたままソフィーダの眼前10センチまで近づき、きっかりとソフィーダの上から下まで見たマールザワーンは、恐怖に近い表情を浮かべた。
 「…………………信じられない………こんな人間が、こんな人間がいるだなんて!!!!」
 「…?どういう意味かしら?」
 「だって」
 「それ以上喋るな」
 ムスティールが、鋭い声で制した。マールザワーンは勢いよく召喚の間を3周余り飛んで、召喚主のところに戻る。
 「さて、マールザワーン。納得してもらったところで聞こう。このマジェスティーナはたいそう気分がすぐれぬゆえ、里下がりをなさりたいそうだ。マジェスティのおそばから離れていいものかな?」
 「だめっっ!!」
 ムスティールの言葉が終わるか終わらないかのうちに、マールザワーンは叫んだ。
 「絶対だめだ!このマジェスティーナは、マジェスティから離れちゃいけない!」
 「何故?」
 ソフィーダは眉をひそめた。
 「…」
 マールザワーンが懇願するようにムスティールを見る。彼は首を振った。
 「もう戻っていい、マールザワーン。お前の名は返すよ。聞きたいことはそれだけだ」
 マールザワーンはどことなくびくびくとしながらとんぼがえりをうち、煙のようにしゅっと消える。
 「…終わったよ」
 しばらくの後、ムスティールが言った。ソフィーダとレーゼは、思わずほっと溜息をつく。
 「お兄様…」
 その時ソフィーダは、初めて兄の額にうっすらと汗がにじんでいたことに気がついた。
 あのようにあどけない…強大な力を持っているとはあまり思えないジンを召喚するのも、やはり大変なのだ。
 「どういうことですの?何故わたくしは里下がりしてはいけませんの?」
 「お前の身に何かあっては大変だからだよ。ジンにはそれが分かるからだ」
 「…分かりません…」
 「分からなくていい。
 とにかくマジェスティーナ、お前がマジェスティーナであるのには、ちゃんと意味があるんだよ。
 イーエンはマジェスティーナにはなれない。どんなことがあっても、どんな強大な権力を持ってもだ。
 それは確かだよ」
 「…?」
 怪訝な顔つきで兄を見上げるソフィーダの頬に、そっとムスティールが手を触れて微笑んだ。
 「大丈夫。お前は千年に一度のマジェスティーナだよ。それだけは、確かだ」

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