翌日。
サラディンの屋敷からジールの屋敷を経由して、やっとタチアナを王宮に届ける準備が出来たのは、もう夕方近かった。
といってもそれほどたいそうな支度はしていない。帝王への献上奴隷としては地味である。奴隷市場で競りにかけられていたときの方がむしろ立派だった。
そして肝心のタチアナの表情が、どこか沈んでいる。
「どうした、臆したか?」
五の大臣、ジール・ガリスは居丈高に尋ねた。タチアナはややうつむいたまま首を振る。
ジールは軽い溜息をついたあと、タチアナの様子をもう一度よく確かめる。衣装代はサラディン持ちだが、その金でタチアナを整える指揮をとったのはジール自身だった。
かといってそれは好意ずくでした話ではない。彼には彼なりの考えがあるのだった。彼にとってタチアナは人形とそう変わりがない。地味にしたのもわざとだった。
「なら、そんな顔をするな。マジェスティの御前に出るんだぞ」
「あのう…ジール様。まだ信じられませんわ。あの方は本当にマジェスティでいらしたのですか?」
「くどい。何度言ったら分かる。その通りだ。当代のマジェスティ、アード・アル・レスト様だ」
「本当に…?」
「くどいと言ってるのが分からないか?」
タチアナは口をつぐんだ。ジールの屋敷に来て、まず彼女が抱きついた男の正体やら後宮の様子やらを聞かされてから衣装替えなどをさせられたのだが、その間何度ジールに同じ質問をしたか分からない。
「いいか、もう一度だけ言う。
後宮では、マジェスティーナが第一人者だ。あの方に気に入られなければ、未来はない。まあもっとも、気に入られた妾などいないがな。
せいぜい大人しくすることだ。分かったな」
こくり、とタチアナはうなずいた。
「それにしても…お前、本当にマジェスティだと分からなかったのか?」
「分かるはずもありませんわ。外国から来ましたから。マジェスティだと分かっていれば…」
やっと奴隷市場での彼女のように、きっぱりと答えた。
確かにタチアナの緑の目はレスト・カーンには珍しい。まず間違いなく外国の出だろう。
男なら心動かさずにいられないその瞳に、ジールは目もくれなかった。
「ま、お前が外国の者であろうと女魔神(ジンニーア)であろうと構わん。邪魔にならなければそれでいい。
とりあえずもうこんな時間だ。行くぞ」
五の大臣は、藍の衣を翻した。
後宮では、ソフィーダが苛々と時間を過ごしていた。
帝王と喧嘩するのは日常茶飯事だが、勝てないとストレスがたまる。
「つまらないわ、レーゼ」
「つまらないですか?」
「何とかしてちょうだい」
「ええと…楽師でも呼びますか?」
「いらないわ」
「では物語師でも呼びますか?」
「それもつまらないわ」
「ええと…じゃあ、甘いものでもお食べになりますか?」
「…いらないわ」
「…間がありましたね。ちょっと心動きました?」
ソフィーダとレーゼは顔を見合わせた。レーゼの大きなこげ茶色の目がくりくりっといたずらっぽく動く。
「ちょっと動きましたね、ソフィーダ様?」
ふふふ、とレーゼは笑った。
「動いていないわ」
「動きましたよ。甘いものですね?シャーベットでもお持ちしましょうか?それとも焼き菓子の方がよろしいですか?」
「レーゼっ」
ソフィーダも笑ってしまっている。これだからこの子は可愛いわ。気働きが出来て、要らぬ遠慮がない。
やられた、という感じだった。
「でももうすぐ夕食の時間だわ。甘いものを今持ってこられても、わたくしは食べなくてよ?」
「では、夕食のあとにお召し上がりになればよろしいですよ。デザートはソフィーダ様のお好きな甘いものにしましょう。ね、ソフィーダ様?」
こくりと首を傾けるレーゼは本当に愛らしい。ソフィーダはレーゼの頭を撫でた。機嫌は大体治っている。元来ソフィーダは発散型で、いつまでも陰湿に怒っているタイプではないのだ。
その時、奴隷頭がソフィーダの部屋に入ってきて、彼女の前に跪いた。
「申し上げます、マジェスティーナ。本日より後宮に入ります、マジェスティ付の奴隷が挨拶を申し上げたいとのことで」
帝王付の奴隷?そんな身分のものがどうしてここへ?ソフィーダとレーゼは顔を見合わせた。
「五の大臣直々に連れてこられております。特別にマジェスティーナとの謁見を賜りたいとのことでして」
五の大臣といえばジール・ガリスに他ならない。勘のいいソフィーダはすぐに全ての糸をつなげ、みるみるうちに厳しい表情になった。
レーゼも勿論察している。
「分かったわ。通して頂戴」
ソフィーダは少なくとも声だけはきっぱりと、そう言った。
|