帝王妃ソフィーダ
外伝
小夜曲のように

 ソフィーダの枕元で、レーゼはうとうととしていた。
 そろそろ看病疲れが出てきたらしい。
 魔神、鬼神、魔霊の三体を召喚し、レスト・カーンを未曾有の危機から救ってからソフィーダが殆ど目を覚ますことのないまま、既に二週間が経過しようとしていた。
 その間、わずかに薬湯を啜るのが精一杯である。
 ただ酷く衰弱しているだけなので医師もこれといった手の打ちようがなく、ソフィーダの生命力に賭けるしかなかった。
 ソフィーダ付きの奴隷は他にも沢山居たが、レーゼは殆どソフィーダの側を離れることはなかった。周りからは、看病している人間こそ休まなければいざというときに役に立たない、共倒れはかえってよくないと言われはしたが、気が休まらないのである。
 ― ソフィーダ様が目覚められたときには、必ずおそばにいたい。
 だが、体には限界がある。レーゼは他の奴隷にそっと肩をたたかれて目を覚ました。
 「あ、ごめんなさい」
 「疲れすぎなのよ。マジェスティーナには私たちもついてることだし、レーゼは少し寝てきた方がいいよ」
 「でも…」
 「それに、ほら。そろそろ。また怒られるよ、レーゼ」
 「…」
 レーゼが返事をためらう間に、他の奴隷が「そろそろ」と言った続きがやってきた。
 政務を終えた帝王アード・アル・レストである。
 アードは戦後のこととて普段に倍する政務を夜遅くまで真面目に片づけた後、毎夜こうやってソフィーダのもとを訪れていた。  元気な頃のソフィーダが見たら笑うくらいの変貌ぶりである。
 奴隷たちが揃って頭を下げる中、アードはソフィーダの枕元にやってきた。
 「なんだ、レーゼ。まだ居たのか。どうせ朝からずっと居るんだろう。駄目だぞ、ちゃんと休め」
 「いえ、お休みは昼間にいただきました。大丈夫です」
 嘘である。
 果たしてアードは少し笑った。
 「お前は本当に、ソフィーダのことになると譲らないな」
 「はい」
 「まあいい。朝までは俺がいるから、休め」
 「でもマジェスティは政務をなさってきたばかりではないですか。毎日こんなに遅くまで…」
 「それが俺の仕事だから仕方ない」
 「でしたら」
 「でもこれは俺のやりたいことだから」
 とっさにレーゼが言い返せないでいると、アードはソフィーダの枕元にかがみこんだ。  安静と魔よけの為に振りまかれた薔薇水がほのかに香る。
 ソフィーダの好きな香りだ、と思ってからアードは彼女の頬に手を触れた。そのまま低い声でレーゼに尋ねる。
 「今日は目を覚ましたのか?」
 「一度だけ」
 「薬湯は飲めたか?」
 「含む程度ですが」
 「飲めないよりはいいな。何しろムスティールが丹誠込めて作る薬湯だ。飲めばよくなる。
 …しかし、俺のいない時に限って目を覚ますな。俺が嫌いなんだろうか」
 「そんな、とんでもない」
 アードは何も言わずに割と真面目な顔で息をついた。こういう時のアードは妙に色気がある。
 彼はソフィーダの頬に口づけた。
 左手をわずかに動かす。これは奴隷に「下がれ」という合図なので、奴隷たちは潮が引くようにさがっていった。
 レーゼはややためらう。畏れ多くも帝王の意に逆らうことは出来ないが、ソフィーダから離れたくはない。
 「お前はいい」
 くぐもった声でアードが言ったので、レーゼはその場から離れるのを止め、元の通りソフィーダの寝台横にうずくまった。
 アードは体を起こし、寝台脇に置かれた椅子に座りながらソフィーダの額髪を撫でる。
 漆黒の髪は、寝付いているにもかかわらずつやつやとしていた。
 息が細い。
 もう一度頬と、額に口づける。
 「お伽話だと口にキスすれば目を覚ますかもしれないけど、多分今はまずいよな」
 独り言のように言ってアードは笑った。
 「キスして息が止まったままになったら、洒落にならない」
 アードはあれからどの女人にも手を出そうとはしていなかった。昼は政務をし、夜はこうやってソフィーダのところで過ごす。単調な生活を嫌う彼としては珍しい行動だった。
 「フィヤンがいないとやっぱり大変だ。あいつはやっぱり有能だったんだな。ジールも謹慎してるし。でも公にしていないことだし、俺はジールが謹慎する必要はないと思うんだ。あいつも屋敷にこもっていたいだろうが、その分俺が苦労する。戻ってきてもらった方がいいよな。フィオルナとの交渉もある。俺はあいつに任せたいんだ。
 そうそう、港の復興は結構士気が高くて順調にいってる。勝ち戦のあとだと勢いが違うらしい。このレスト・カーンに攻め入るような命知らずの国は父上の代にもなかったから、比較は出来ないけど。
 それから…庭の薔薇園がもうすぐ蕾をつけそうだっていう話だ。お前の好きなのもあっただろう。それまでには見られるようになってるといいな」
 アードはそうやってソフィーダにその日あったことや何かを語っていた。いつか返事がくると思いたかったのかもしれないし、ただ話していると落ち着くのかもしれなかった。
 レーゼはそんなアードを見ると少し胸が痛んだ。
 ― このお方は、全身で後悔している。
 フィオルナ侵攻へのきっかけを作ったのは寵姫タチアナだとしても、アードも全く無関係ではない。奴隷市場で彼がジールの諫めを容れて、きっぱりと断っていれば済んだ話なのだ。
 「…ごめんな」
 ぽつりとアードが言った。謝るのも、この二週間のうちで幾度目かしれなかった。
 「レーゼ」
 自分の名が呼ばれた。レーゼは体を起こす。
 「お前は、俺が悪いと思ってるか?」
 「いいえ」
 「そうか」
 「…恐れながら、マジェスティ」
 奴隷から話を切り出すなど、首が飛んでもおかしくないが、レーゼは敢えて言った。
 「何だ」
 「マジェスティは、誰かに責めて欲しいのですか?」
 「………うん」
 しばらく考えた後、アードはうなずいた。
 「できればソフィーダが起きて、俺のせいだとののしってくれたら楽だなあと思う」
 そして、いつものように喧嘩してくれればそれに越したことはない。
 「でもそれは卑怯だなとも思うのさ。俺のせいだと言われたら、きっと俺は反論を考えるだろうし、無理矢理俺のせいじゃない理屈を考えてほっとすると思う。卑怯だろ?」
 「…」
 「それよりかはこうなってしまったソフィーダという事実が厳然とあって、それを受け止めるしかない自分がいた方がまだマシな人間になれる気がするんだ。もう遅いかもしれないけど」
 「…」
 レーゼは何を言って良いのか分からなかった。
 ソフィーダの寝台脇にある照明にぼんやりと照らされたアードの顔が、なんとも寂しそうだった。
 炎の揺れる音すら聞こえそうな沈黙のあと、アードはまた口を開いた。
 「レーゼは、俺とソフィーダは仲が悪いと思ってるか?」
 「いいえ」
 それは絶対に違う。レーゼはきっぱりと答えた。
 「じゃあもう少し正確に聞くと、俺はソフィーダが嫌いなように見えたか?」
 「いいえ」
 これも違う。
 「どうしてそう思った?」
 「見ていれば、分かります」
 「具体的に言ってくれ」
 「…失礼にあたりますから」
 「俺が言えと言っているんだ。忌憚なく、頼む。お前の身の安泰はあらかじめ保証されている」
 アードは懐から手巾を取り出してレーゼに与えた。これは、いかなる事を言ってもそれを理由に処刑したりはしないという王者からの特別な約束である。
 「では…」
 レーゼは軽く息を吸った後、言葉を紡いだ。

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